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Sunday 19 November 2006

『キリスト教及び東洋哲学の美術』 アーナンダ.K.クマーラスワーミ/Christian and Oriental Philosophy of Art by Ananda K. Coomaraswamy

「美は、認識能力と関連する」(トマス・アクィナス)
伝統主義者にとって芸術とは、文学においても絵画おいても、決して「芸術のための芸術」とは見なされないものです。「芸術のための芸術」とは、全くのブルジュワ的幻想でしかありません。クマーラスワーミは、ここに手段と目的の混同があると指摘します。
芸術とは、それ自体が最終的な目的でも、目的の一部でもなく、人々の目を真実に導く手段でした。それは、
「徳はそれ自体が報いである」という主張が、誤りであるのと同様です。(ダンテが表現したように、徳は最終目的にいたるための乗り物であり目的地ではありませんでした。)
中世美術と現代美術の間には大きな隔たりがあります。
中世美術においては、プラトンが「追従」と呼ぶ他人を喜ばすこと、あるいは自己を表現することは、目的にありませんでした。
多くの芸術作品は無名の芸術家によってなされました。というよりも、芸術家は無名であることが当然であり、個人的な成功は重要ではありませんでした。傑作 (masterpiece、そもそもは字義通り、職人がmasterとしてひとり立ちできる能力があることを証明する為の作品)は、天才によってではなく 無名の人々によって生み出されていました。パトロンも、仕立て屋の個人的性質とその発揮よりも、仕立てられた服の出来上がりを評価するように、芸術家の特 殊な才能の発揮よりも、完成された作品を評価していました。表現形式や外観よりも、表現された内容こそが重要でした。芸術作品の内容は、人々の心を動かし 観照へと導くものだったのです。
クマーラスワーミは広く受け入れられている芸術の見方を批判します。
現代の進歩や進化を信じる一般的な観点は、中世芸術を「解剖学について、なにも知らなかった」時代のものだと言います。
このような後期ルネサンスとアカデミックな芸術のリアリズムからの批判は、中世の哲学者によってすでに不当であることが指摘されていました。それらは「身体よりも美しいものを考えることができない」人々の意見なのです。
また別の批判されるべき観点は、いわゆる玄人の美学的観点です。彼らは“プリミティブ”な芸術にも美を見出します。しかし彼らの関心の中心は、外観へのわれわれの情緒反応と、美観 “aesthetic surfaces”や部分間の関連にあります。このような意見の背後には、芸術が「感情の表現」であるという考えがあることを見抜かなければなりません。また、aesthetic 審美的という語が使用され始めたのは、わずかこの2百年あまりのことであるのを思い出す必要があります。Aesthetic とはまさしく「(知力でなく)感覚による認識理論と、感情的反応」を意味しています。このような見方から、「知識こそが、作品を美しいものとする」(聖ボナヴェントゥラ)と考えた人々の芸術を正しく評価することが可能なのでしょうか。
中世美術の本質へ近づくには、どのようなアプローチが正しいのでしょうか。
それは、中世の精神、キリスト教の精神それ自身、そして最終的には、永遠の哲学“
Philosophia Perennis”すなわち、普遍的で一致した伝統 Universal and Unanimous Tradition”を理解することです、とクマーラスワーミは言います。「いくらかでもあっても、それらは伝統芸術―中世、東洋、あるいは民族のものであろうとーの理解と享受への扉を開くでしょう」
本当に中世美術を理解する為には、エミール・マールが“calculus”計算法と呼ぶキリスト教の象徴的表現ーそれはキリスト教のみ、またヨーロッパにのみ属するものではないー、芸術という普遍言語を学ぶことが必要なのです

by

Ananda K. Coomaraswamy