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Monday, 6 May 2019

歴史と終末論 R.K.ブルトマン / HISTORY AND ESCHATOLOGY BY R.K.BULTMANN


世紀の大連休の最終日を迎え、予想以上に憂鬱な気持ちなのですが、明日はどうでも出勤して愛猫のご飯代、ついでに(?)自分達の分を稼がねばなりません。いったい、どうすれば人はー例えば変わりばえしない毎日を過ごす会社員の自分などはー相対主義やニヒリズムに沈むこと無く、自分の真の生を実現し「真の実存」を獲得出来るのか、とブルトマンに問えば、こんな答えが返ってくるかも知れません。歴史的・実存的認識を獲得し教会の戒律に従ってみたら、と。
この回答の重みを楽しむ為に、パウル・ティリッヒの以下の言葉を思い出してみます。「神学・聖書学者の、何と軽率に『歴史』という用語を使うことでしょうか。例えば、キリスト教を『歴史』的宗教と述べる時など。彼らは『歴史』という単語にリンクしている内容が、何千年にもわたる史書および歴史哲学により形成された事を忘れているのです。『歴史』的存在が、ある特殊な存在であり、『自然』やその他と区別される存在である事、それから『歴史』の問題が、時間や自由、偶然(それぞれ歴史の概念同様に展開されてきた概念)の問題と結びついている事を忘れているのです。神学者はこれらの用語の意味を真剣に考え、深さにおいても広さにおいても十全に理解したうえで使うべきです。…」(*Systematic Theology, vol. Iより適当に訳しました)

ブルトマンは、この本でキリスト教的終末論を「歴史」より上位に置いて説明して行きます。最終章は使徒的な呼びかけと言ったら良いか、思わず近寄ってみたくなるような力強い読者への呼びかけで締めくくられています。と同時に、唐突に示される堅い信仰心には、一歩引かずにはいられない戸惑いも感じてしまいます。
なお、ブルトマンが支持する歴史的認識は、預言者の体験を自身のうちに再生するというイスラームの神秘主義者の試みにも似て相当に難度が高いのですが、後日自分も試みるために(!)引用しておきます。

真の歴史的な問いは主観、すなわち己れの責任を感じる人間の歴史的な感動(historical emotion) から生じる。したがって、歴史的研究は歴史現象のただ中で人間に出会う主張に耳を傾ける準備のあることを含むのである。 (-中略-)真の歴史的認識は理解する主体が真に生き生きとして、彼の個性を展開することを要求する。歴史への参与によってゆり動かされる歴史家(-中略-)このような歴史家のみが歴史を理解しうるであろう。 この意味で、最も主観的な歴史解釈が同時に最も客観的である。己れの歴史的実存によって動かされる歴史家のみが歴史の要求をきくことができるであろう。
R.G.コリングウッドが次のように言うとき、それはこの意味においてである。「歴史の探求が歴史家に彼自身の精神の力を顕わにする。このようにして、歴史は生ける精神の自己認識である。というのは、歴史家の学ぶできごとが遥か過去に起こったできごとである場合ですら、それらのできごとが歴史的に認識されているというための条件は、それらが『歴史家の精神のうちで鼓動する』ということである。(R.G.Collingwood, 歴史の観念) 」


R.K.ブルトマン (著), 中川 秀恭 (翻訳)と、眠る愛猫

Saturday, 24 March 2018

『共感脳』The Empathic Brain by Christian Keysers



1980年代から90年代にかけて、イタリアのパルマ大学で、神経生理学者達がある発見をしました。それは、サルの目の前で研究者がレーズンを手に取って見せた時のことです。サルの脳に差し込まれた髪の毛ほどの細い電極が、脳細胞の興奮、「発砲」を感知しました。それを「…non, può essere!(あり得ない!)」と見ていた研究者が叫んだのは、その脳細胞の活動が、サル自身が同じようにレーズンを手に取った時に見られるのと全く同じものだったからです。こうして、後年ある神経科学者がジェームズ・ ワトソンとフランシス・クリックのDNA二重らせん構造の発見と比較するような、革新的な発見がなされたのでした。;脳には、自分が見た行為を、自分がまるで行っているかのように脳内に映し出す機能を持った脳細胞、鏡のようなミラーニューロンがあるという発見です。
ここから様々な実験を経て、人の運動においてミラーニューロンが働くように、人の情動においても同じように働く脳の一連の機能が発見され、「shared circuit(共有回路)」と名付けられました。
ところで、私はラブコメ映画が好きです。まず、ヒロインとヒーローはお互いに、いい感情を持たないところから話が始まります。『プライドと偏見』は理想的な筋立てです。紆余曲折、どんでん返し、感情の反転を経て気分が高まってゆくのですが、その気分の高まりは、ミラーニューロン、シェアードサーキットを発見したチームによれば、私の脳内に「物語の人々の経験」がフィクションとしてではなく「自分の経験」として、現実の感情が再現されているが故のものなのです。例えば、私に辛い失恋、片想い、そして夢のような相愛の経験があったとして似たような物語を見た場合、過去にその経験で興奮した脳細胞、興奮回路が刺激され活動し、共感する可能性は大でしょう。反対に、同様の、あるいは多少でも似たような感情を自身の中に持ったことが無ければきっとラブコメ映画や恋愛小説は退屈で耐えられないものに違いありません。
神経生理学者は、共感とは他人の気持ちを理解・認識することではなく、自分自身の中に同じ感情を引き起こすことだと言います。共感のための脳細胞、一連の脳の活動が、他人の感情を察知し、自分の中に映し出し、同じ感情を引き起こし、そして本当の意味で他人の気持ちを理解することを可能にしていると。

「ダンテ的精神のみが、ダンテを理解できる」

ありふれた事にも思えますが、時空を超えて、他人が持ったある特定の感情、ある精神活動に共感するという事は、実は気が遠くなるような可能性の中からの実現ではないでしょうか。自分の頭蓋骨に収まっている器官(宇宙でただ一つのユニークな構造を持っているもの)が、他のこれもまた唯一の器官の内部で起った活動に共鳴し、同じ振り幅で心を震わせる、まるで自分の精神に他の精神を呼び出すなどという事はー例えそれがダンテでなくともー奇跡的な事のように思えるのです。


Friday, 20 September 2013

『マキャヴェッリについての考察』 レオ・シュトラウス / Thoughts on Machiavelli by Leo Strauss



「夕方になると、わたしは帰宅して書斎に入る。部屋の入り口で泥とほこりにまみれた百姓着を脱ぎ、いかめしい礼服に着かえ、堂々たるいでたちで古代の人びと の古代の宮廷へ入っていく。そしてそこで、かれらにやさしく迎えられて、わたしは、わたしだけのものであるあのごちそうを食べるのである。まったくわたし は、このごちそうを食べるために生まれてきたのだよ。そこでわたしは遠慮なく古代の人びとと語り、かれらの行動の理由を聞くのだが、かれらもこだわりなく わたしに答えてくれる。この四時間というものは、わたしは日ごろの憂悶を忘れ、苦悩を忘れ、困窮を忘れ、死ぬことさえ気にかからぬ。わたしは古人の世界に まったく没入しきっているのだ。」
- マキャヴェッリの手紙より (デ・サンクティス『イタリア文学史』 翻訳 在里寛司・藤沢道郎)

ニッコロ・マキャヴェッリの肖像画を見ると、そこには愛嬌のある目差しを投げかけてくる陽気なフィレンツェ人がいます。「まじ めさと軽薄の、ほとんど不可能な結合」が、この陽気な書記官の精神のうちにはあったといわれています。丁度彼の著書に、真面目な教説と読者を楽しませる話 とが同時に見られるように。
目的が手段を合理化し、成功が蛮行を正当づけるという格言で悪名高いマキャヴェッリですが、デ・サンクティスによると、『君主 論』という小著と、「マキャヴェッリズ ム」なるものによって彼は矮小化されてしまったのであり、この「ボッカチオ精神に育てられたダンテ」(デ・サンクティス)である人物の偉大さは、正当に評 価されるべきなのです。
シュトラウスによれば、マキャヴェッリという人間の核にあったものは、人間について、人間の条件について、そして人間的な事柄についての考察でし た。彼はイタリアの精神を腐敗から救おうとしました。それはイタリアを蛮族から自由にするという政治的なものではなく、イタリアの精神的エリートを「有害 な伝統」から解放することで した。「有害な伝統」は、マキャヴェッリから見れば、あまりに人間の善性を信じすぎ、過度に観念的で空想的、女性的ですらあり、人びとの精神を軟弱なもの にし てしまっていました。その伝統として挙げられているものにキリスト教があります。キリスト教は敵に抵抗することより敵を柔軟に受け入れること、苦難に耐え ることを教え、行動より観想に重きを置くものでした。それらは、マキャヴェッリが祖国に見た破滅と腐敗を導きます。
ここに、彼の新しい教説がイタリアに必要な条件が揃います。
「若い知的エリート」たちに、マキャヴェッリは暗示的で謎めいた言葉で話しかけます。それは、読者がそれらに魅せられ気づかな いうちに、彼の「冒涜」に参加し、邪悪な思想(集団的利己主義)を自分のものとすることを狙ったものでした。マキャヴェッリは、死後何世代かのちに、新し い予言者として精神的な世界において勝利する事を計画しました。キリスト教がプロパガンダによって異教を打ち負かしたように、彼もキリスト教をプロパガン ダによって打ち負かせると信じたのです。
マキャヴェッリは社会に向かって問いかけます、「おまえは何であるのか?どこへ行くのか?」。
彼にとって、ヒューマニズムは不十分なものでした。人は自分自身を超えたところに行く存在であり、もし"supra-human"、超人間性へ上昇して行くことができないなら、"sub-human"、人間以下に、下降して行くものとして理解しなければならない、、、。
たとえ私たちがマキャヴェッリの教えが悪魔的なもので、また彼自身が悪魔だったと保証できたとしても、ある深遠な神学的真実を忘れるわけにはいかな い、とシュ トラウスは言います。それは悪魔が堕ちた天使だという事です。マキャヴェッリの思想の悪魔的な内容を認識するという事は、かつては高い位階に属した崇高な 精神とその思想の、倒錯してしまった姿を認識する、という事を意味するかもしれないのです。

Sunday, 23 May 2010

『パリでいっしょに』 エドマンド・ホワイト/Our Paris Sketches from Memory Edmund White and Hubert Sorin

エドマンド・ホワイトは、(同性の)恋人、ユベール・ソランとパリで暮らしました。
1993年、彼らが同居する為に移り住んだアパルトマンの場所はパリの中心地で、シャトレ駅から歩いてすぐのロンパール通り(Rue des Lombards)にあります。
エドマンドの書斎の窓のすぐ下では、品のいい奥様といった感じの年配の娼婦が七、八人、交代で「営業」しています。すぐ側のサン・マルタ ン通りをいけば、浮浪者が周りをうろついているサン・メリ教会があります。
売春婦や浮浪者、旅行者、芸術家、地元の人々などが行きかう賑やかなこの界隈は、二人にとって居心地がよかったようです。調べてみると、マレ地区は当時からゲイが多いということで、それも当然だったかも知れません。
Rue des Lombards の地図 (http://bit.ly/bcyERX)
エドマンドの序文は、1994年、まだ32歳だったユベールの死のわずか2時間後に書かれました。ユベールは、「オーブリー・ビアズリーの絵にファ ラオの風格が備わった」(エドマンド)イラストを描く、すらりとしたダンディーでハンサムな青年です。(1962年生まれ。エドマンドは1940年生ま れ)
二人の共同作業により生まれたメモワール、『パリでいっしょに』は、パリの町並みと地元の人々の日常、外国人から見れば滑稽なフランス人の特徴、人々の奇癖、伝説的人物の逸話などで読者を楽しませます。一方、ユベールとエイズとの格闘は、一切描かれていません。
読んでいて思わず声を出して笑ってしまった話はいくつもあるのですが、そのうちのひとつ、浮浪者の話をご紹介します。
シャトレ界隈には、ボル・ド・リ(ご飯茶碗)と呼ばれているホームレスが出没します。彼は相当なファッション・センスを持っていて、コム・デ・ギャルソン のスタイリストがついていると言ってもおかしくないようなコーディネーションで服を着ていることがしばしばあるとの事。着るものは、近所の人々や、サン・ メリ教会の向かいで古着などを売っている人々からもらったものらしい。
近所のフリーマーケットでブランド物を目ざとく発掘し、ただ同然で購入して着こなしている自分の家族を思い出さずにはいられない話です…。
最後のエッセイに添えられたユベールの「デッサン」は、二人の5年間がどのようなものであったか、エドマンドの愛情がどのようなものであったかを想像させます;
背景の描かれていない画面の下のほうに、「強情で意地っ張り」、垂れ耳のバセット・ハウンドが寝そべっています。ユベールが溺愛し た、二人の子供とも言える犬、フレッドです。その頭上には王冠が描かれています。
なぜフレッドに王冠が被されたのか…私はそれを思うと胸が熱くなってしまうのです。
なぜなら、「彼(ユベール)にとってわれわれの愛は、異性のカップルと何ら変わりない、神 々の祝福を受けた愛だった」ことを、エドマンドのその言葉以上に、雄弁に説明しているように思えるからです。
そのような愛で結ばれた二人の子供であるフレッドの絵は、二人の世界を慈悲深く守る王、王冠を被るべき貴い存在の、エンブレムのようにも見えてこないでしょうか。



 『パリでいっしょに』 エドマンド・ホワイト著 中川美和子 訳 白水社

 Our Paris Sketches from Memory by Edmund White and Hubert Sorin

Wednesday, 29 July 2009

『宮廷画家のプリンス』アーサー・シモンズ/A Prince of Court Painters by Arthur Symons


白いシンプルな靴にはやわらかい珊瑚色の大きなリボン、踝のみえる短めのズボンをはき、白くてだぶだぶのシルクの上着を身に着けています。その上着 には、襞のある扇形に広がる特徴のある襟がついています。なにやら丸い帽子をかぶり、脱力した両腕を脇にたらし、穏やかに開いた眉の下にやさしげな目を輝 かせています。
憂いを帯びた微かな微笑がそのピエロの衣装と対照をなし、広いルーブルで数々の絵画に食傷気味になった鑑賞者をさえ、立ち止まらせるのです。
「優雅な宴」(fêtes galantes) で知られる画家アントワーヌ・ヴァトーはいつも病気がちで、その為にあちこちを転々としました。晩年にはよい医者がいるというのでイギリスにまで渡りまし た。それでも、健康になり、たずねて来る友人にも邪魔されず、静かに作品に没頭したいというヴァトーの希望は生涯かなわなかったようです。イギリスから 戻って数ヵ月後に36才の若さで病死しました。
青年のころから、彼は自分自身の 人生の喜びや欲望には興味を失っていました。その代わり、他人の人生を観察することに喜びを見出していました。数々の優美な宴、幸福が閉じ込められている ような庭(T・ゴーティエ)、そこで楽しげに手を取り合う恋人たちーこれらは批判的で憂鬱な傍観者の覚めた筆により描きだされたのでした。
刹那的に生き、夢想に身を委ね、幸福に頬を輝かせている女性たちー彼女たちの姿を素晴らしく魅力的に描き出しつつも、彼はそのような人々と交わり同様に生きたいとは思いませんでした。
ヴァトーは悲しみと羨望を感じながら、情事
(la galanterie)のはかないうわべだけの美しさを観察します。そしてそれらに、敬虔と言ってもいいほどのまじめさを与えました。これこそ、他の軽薄な絵のみを残した画家たちにできなかったことでした。
悲しいお祭り騒ぎーヴァトーの絵画はリュートやクラヴィコードで奏でられる悲しげな音楽なのだ、とアーサー・シモンズは言います。弦は啜り泣きし、クイル(ハープシコードの弦を弾く爪)は空疎な音をたてる。ヴァトーの色彩は、常に色あせたものの色であり、枯れかけたバラの花びらの色なのだ、と…。
ウォルター・ペイターは、ヴァ トーの唯一の弟子であったジャン・パプティスト・ペイターの妹の日記という体裁を取って、ヴァトーの肖像を描きました。アーサー・シモンズはこの想像的肖 像(Imaginary Portrait)に、ヴァトーのすべてが完璧に描き出されていると書いています。
原書 : Colour Studies in Paris by Arthur Symons (1918)