1792年、スイスのある男爵は「知られざる哲学者」という筆名で『誤謬と真実』を出版した人物に、こう手紙を出しました。
男爵は「知られざる哲学者」が著作で使った用語、「能動的・理知的原因(La cause active et intelligente)」や「徳(Les vertus)」について説明を請います。熱心な質問には、フランスからすぐに丁寧な返事が届きました。
ここから、二人の文通は始まります。
男爵は自分の知的興味の赴くまま、文通相手に意見や助言を求めました。ことにオカルティズムの実験と研究については、なんども意見を求めました。そして、温和で忍耐強く優しい哲学者から、ついにはいらだったような返事を受け取ります。
「なんという富をあなたはその手にもっていることでしょう!その富の宝庫を目の前にして、あなたがまだそのような下位の法則の研究に時間を無駄にしているとしたら、私は非常に残念なことと思います。」
ここでこのフランス人哲学者が指している富とは、二人が話題にした神秘家たちのなかでも、とりわけヤコブ・ベーメの著書でした。男爵はドイツ語が母語だっ たため彼の著作を自由に読めましたが、文通相手はヤコブ・ベーメの著作を読むために、50歳近くにしてドイツ語の勉強を始めなくてはならなかったのです。
知られざる哲学者(Le Philosophe unconnu)という名で著書を出版した神秘思想家、ルイ・クロード・ド・サン・マルタン(Louis-Claude de Saint-Martin)は、1743年にフランス・ロワール河流域のアンボワーズに生まれました。3歳の時に母親と死別し、以後義理の母親に育てられ ます。「わたしの幸福は、すべて(義理の)母のおかげなのです。」とサン・マルタンは回想します。彼女のやさしい気遣い、愛情、敬虔さ、そしてその教育 が、彼を神のみならず人への愛情に導いたと言います。コレージュを出た後、パリで法学を学びましたが司法官職には向かず、平時にはより自由な時間が持てた 軍隊に入ります。25歳のとき、秘教団体の創立者として知られる謎めいたスペイン人、マルチネス・ド・パスカリに出会いました。そして結局は軍人としての 職も放棄し、パスカリの個人秘書となります。ただ、サン・マルタンはパスカリについて多くを語りません。パスカリの創立した秘教団体では、あらゆる秘術・ 実験に参加しましたが、それには常に懐疑的でした。「このような外面的な方法は、私を引きつけませんでした。-(中略)-私は一度ならず師に向かって叫びました。『このようなものすべては、神を見出すのに必要なのでしょうか?』」パスカリの死後、サン・マルタンはこのような結社から離れました。
「私
の現世における仕事は、人々の精神を、自然な道筋に
よって神秘的な事柄へ導くことです。人は自分に相応しいその観念を、一方では堕落によって、また一方では教師らのしばしば誤った知識により、失っていま
す。」自分の人生を支配した情熱、その目的を、サン・マルタンはこのように表現しました。
サン・マルタンは壮年時この使命を、著作によってだけでなく、パリ上流社会で影響力を持つことによって達成しようとしました。当時エリゼ宮を所有していた ブルボン公爵夫人を友人とし、神秘家・哲学者としては社会的成功を収めたと言えます。物腰は優美で人懐こく、また謙虚でもあり、魅力的な容貌であった彼は どこでも歓迎される思想家でした。(やがてこの方法に限界を感じてからは、執筆活動により時間を割くようになります。)
サン・マルタンはジョゼフ・ド・メーストルの先駆者と言われることもあります。ドイツには「非道な教義(doctrines
infernales)」である啓蒙思想が蔓延し、フランスでは自然崇拝や物質主義が氾濫していたなか、サン・マルタンは神聖の崇拝者であり神意(Laサン・マルタンは壮年時この使命を、著作によってだけでなく、パリ上流社会で影響力を持つことによって達成しようとしました。当時エリゼ宮を所有していた ブルボン公爵夫人を友人とし、神秘家・哲学者としては社会的成功を収めたと言えます。物腰は優美で人懐こく、また謙虚でもあり、魅力的な容貌であった彼は どこでも歓迎される思想家でした。(やがてこの方法に限界を感じてからは、執筆活動により時間を割くようになります。)
Providence)の擁護者でした。しかし彼にはメーストルのように必殺の寸鉄句を持って論争相手を打ち砕くことへの嗜好はありません。穏便な説得と勧告によって、まだ硬直していない精神を持つ知的な人々へと働きかけようとしました。
「十全なる真理に論理的思考だけで到達できるかのように振舞うことは、虚しいことである。このような方法では、我々はただ合理的な真理へしかたどり着けな い。しかしそうはあっても、(論理的思考には)際限なく価値があり、誤った哲学からの攻撃に対抗する為の手段に富んでいる」
サン・マルタンにとって、人は異国に植えられた植物に似たものでした。彼の本質は異国(地上)には属してはいず、たとえ異国の養分を吸収し堕落してその世界に同化はしても、異国は滞在地であり、故郷ではないことに変わりはないのです。
原書:Correspondance de Saint-Martin avec Kirchberger, baron de Liebistorf (1792-1797)