世紀の大連休の最終日を迎え、予想以上に憂鬱な気持ちなのですが、明日はどうでも出勤して愛猫のご飯代、ついでに(?)自分達の分を稼がねばなりません。いったい、どうすれば人はー例えば変わりばえしない毎日を過ごす会社員の自分などはー相対主義やニヒリズムに沈むこと無く、自分の真の生を実現し「真の実存」を獲得出来るのか、とブルトマンに問えば、こんな答えが返ってくるかも知れません。歴史的・実存的認識を獲得し教会の戒律に従ってみたら、と。
この回答の背景を見る為に、パウル・ティリッヒの以下の言葉を思い出してみます。「神学・聖書学者の、何と軽率に『歴史』という用語を使うことでしょうか。例えば、キリスト教を『歴史』的宗教と述べる時など。彼らは『歴史』という単語にリンクしている内容が、何千年にもわたる史書および歴史哲学により形成された事を忘れているのです。『歴史』的存在が、ある特殊な存在であり、『自然』やその他と区別される存在である事、それから『歴史』の問題が、時間や自由、偶然(それぞれ歴史の概念同様に展開されてきた概念)の問題と結びついている事を忘れているのです。神学者はこれらの用語の意味を真剣に考え、深さにおいても広さにおいても十全に理解したうえで使うべきです。…」(*Systematic Theology, vol. Iより適当に訳しました)
ブルトマンは、この本でキリスト教的終末論を「歴史」より上位に置いて説明して行きます。最終章は使徒的な呼びかけと言ったら良いか、思わず近寄ってみたくなるような力強い読者への呼びかけで締めくくられています。と同時に、唐突に示される堅い信仰心には、一歩引かずにはいられない戸惑いも感じてしまいます。
なお、ブルトマンが支持する歴史的認識は、預言者の体験を自身のうちに再生するというイスラームの神秘主義者の試みにも似て相当に難度が高いのですが、後日自分も試みるために(!)引用しておきます。
真の歴史的な問いは主観、すなわち己れの責任を感じる人間の歴史的な感動(historical emotion) から生じる。したがって、歴史的研究は歴史現象のただ中で人間に出会う主張に耳を傾ける準備のあることを含むのである。 (-中略-)真の歴史的認識は理解する主体が真に生き生きとして、彼の個性を展開することを要求する。歴史への参与によってゆり動かされる歴史家(-中略-)このような歴史家のみが歴史を理解しうるであろう。 この意味で、最も主観的な歴史解釈が同時に最も客観的である。己れの歴史的実存によって動かされる歴史家のみが歴史の要求をきくことができるであろう。
R.G.コリングウッドが次のように言うとき、それはこの意味においてである。「歴史の探求が歴史家に彼自身の精神の力を顕わにする。このようにして、歴史は生ける精神の自己認識である。というのは、歴史家の学ぶできごとが遥か過去に起こったできごとである場合ですら、それらのできごとが歴史的に認識されているというための条件は、それらが『歴史家の精神のうちで鼓動する』ということである。(R.G.Collingwood, 歴史の観念) 」