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Tuesday, 5 July 2005

『フランシス・ベイコン』マイケル・ペピアット/Francis Bacon: Anatomy of an Enigma by Michael Peppiatt



見事なテクニックでベイコンに描かれた、生々しい内臓や人物像、恐ろしい怪物らは、まるで鑑賞者の精神の中でさらなるリアリティを得、悪夢のように執拗に、無意識の領域に働きかけてくることを望んでいるかのようです。
 同時代の画家バルテュスは、ベイコンの絵を「率直に言って、好きとはいえません」と語るものの、ベイコンを今日ではごくわずかしかいない、本物の画家のひとりだと評価しています。
 ベイコンの62歳 の誕生日にあわせて開催されたパリでの回顧展は、観客の心を強く掴んだものだったようです。ある恐ろしい作品を銀の握りのステッキで指し、「とても (trés)、とても(trés)、良識的だ」と宣言する巨匠ダリのパフォーマンスも、「数人の観客しか振り向かせなかった」ほどでした。
 常に自分を単純な人間と思わせようとしていたベイコンですが、この伝 記はベイコンの父親が性的対象であった少年時代から危険に満ちた青年時代、そして若くハンサムな恋人を持つ成功した晩年までを注意深く描き、ベイコンが実 際には複雑な画家であったことを明らかにしています。
 ベイコンは、無意識のうちに眠っている我々の攻撃性、残忍さと性的衝動、禁忌の領域にある暗い破壊的衝動に働きかけようとしました。その為に、しばしばグロテスクな、まるで生きたまま内外を裏返しにされたような人体を描きました。
 ベイコンの絵画は、彼自身が言う「人間はみな人格の隠された領域によって生きている」、その領域を暗示ではなく明示しようとしているかのようです。

Saturday, 2 July 2005

バルテュスとの対話コスタンツォ コスタンティーニ (編集), Costanzo Costantini


バルテュスは、自身を「宗教画家」であると言います。
「人がわたしの絵のなかに見出すエロティシズムは、それを見る人間の目、その精神、あるいはその想像力のなかにあるのです。聖パウロは言っています。淫ら さは見る者の目のなかにある、と」。彼の絵の少女を「淫らな天使」だというのは、その人自身が淫らだからです。(また、バルテュスは眠っている少女を描い たのは、モデルが動かないので描きやすかったからだと理解する人はめったにいない、とこぼします。)
このハンサムな画家が回想する著名な人物(サルトル、バタイユ、ジャコメッティ、カミュ、ブルトン、コクトー、ダリ、フェリーニ他、沢山)、彼らの 会話はとても愉快で軽快です。洗練された知識人であるバルテュスの、美や絵画に関する意見も、画家志望の青年にとっては参考になりそうです。

Friday, 1 July 2005

貧しき女―現代の挿話 レオン・ブロワ/La femme pauvre par Leon Bloy



ライサ・マリタンは『大いなる友情』で、この小説においてキリスト教的現実にはじめて直面した、と記しています。しかしメーテルランクが『リヤ王』 に比したこの小説は、通常キリスト教的、と言われるものからは随分異なっています。「憎しみの収集家」の名に恥じず、ブロワは様々な悪口雑言、激しい悪態 を怒りと憎しみの対象に浴びせかけるのです。
彼は_the Absolute_以外のものに満足するあらゆる人間を嫌悪し、パンチのある言葉で糾弾しました。「偉人でないすべてのキリスト教徒は豚である」…(とこ ろでブロワは自分を敬虔なカトリック教徒とみなしていました。それは、「人はだれよりも自分自身について、もっともよく知らない」という彼自身の意見を正 当化するのに十分なことはないでしょうか…。)
グレアム・グリーンはこう評します。読者は登場人物に魅力があるから読むのではない、ときおり彼の詩的感覚がきらめいて、「高潔な魂には直線的な苦 悩が予約されている」といったイメージ、またリルケを思い出させるような強烈な悪夢に似たヴィジョンの文章にであうから読むのだ、と。