ライサ・マリタンは『大いなる友情』で、この小説においてキリスト教的現実にはじめて直面した、と記しています。しかしメーテルランクが『リヤ王』
に比したこの小説は、通常キリスト教的、と言われるものからは随分異なっています。「憎しみの収集家」の名に恥じず、ブロワは様々な悪口雑言、激しい悪態
を怒りと憎しみの対象に浴びせかけるのです。
彼は_the
Absolute_以外のものに満足するあらゆる人間を嫌悪し、パンチのある言葉で糾弾しました。「偉人でないすべてのキリスト教徒は豚である」…(とこ
ろでブロワは自分を敬虔なカトリック教徒とみなしていました。それは、「人はだれよりも自分自身について、もっともよく知らない」という彼自身の意見を正
当化するのに十分なことはないでしょうか…。)
グレアム・グリーンはこう評します。読者は登場人物に魅力があるから読むのではない、ときおり彼の詩的感覚がきらめいて、「高潔な魂には直線的な苦
悩が予約されている」といったイメージ、またリルケを思い出させるような強烈な悪夢に似たヴィジョンの文章にであうから読むのだ、と。