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Monday 9 July 2012

『スーフィー論集』 S.R.ナスル / "Sufi Essays" by Seyyed Hossein Nasr

確かにわれは人を最も美しい姿に創った。
そして彼を最も低い身分へと落とした。
(クルアーン 95章 4-5)

自らの限界を超えようとする努力は、宇宙旅行にせよ薬物によるトリップにせよ、人がかつて享受していた「完全な状態」を忘れられず、また最も低く落とされた状態に満足することもできない証ではないか、とS.H.ナスルはこの本で書いています。
「もしまだ人が完全な状態で存在していたなら、人はそれ以上何も望むことはないでしょう。また、動物や植物と同様に感覚的な世界だけに生きることが自然で本来的なものなら、その場合もまた人はそこに留まるでしょう。」
しかし、(とナスルは続けます)クルアーンに記されているように、人はそもそも「最も美しい姿」に、「神の似姿として造られた」のであり、いつの時代に あっても、ある高みをめざそうとする努力が地上で絶えたことはないのです。人であるということは、人である状態を超越しようとし続けることであり、あるが ままの状態に留まり満足するということは人間以下の状態への堕落ですらあると言います。
宇宙旅行や薬物による超越が代替でしかないとしたら、人はどこへ真の超越を求めて向かえばいいのでしょうか。
ナスルによれば、向かうべきは神から来た道ー啓示宗教における神秘主義であり、これを辿ることによってのみ、人的限界を超えようとする神秘的探求は成功へ導かれ得るのだそうです。
似非神秘主義の目的が精神の崩壊・分解であるのに対し、真の神秘主 義の目的は神的原型への同化にあります。(ここで神秘的(mystical)であるとは、本来の意味においてであり、それは神聖な神秘’divine mysteries’、知性と理性の源に関わり、個人の非合理的な感傷や幻想、オカルティズムなどとは無縁のもの、と言われます。)
スーフィズムはイスラームにあってそのような完成-神的原型への同化へ至る道(真の神秘主義)のひとつであり、人々に自分が本当は何者であるかを思い出させようとするものなのです。

(2019.09.21)
ところで、先日デンゼル・ワシントン主演の「Flight」(2012)を見ました。終盤に主人公は難しい質問を投げかけられます。試練を乗り越えたこの映画の主人公は、 good question, と時間を稼ぐのですが、そのあとどう続けたのか…気になりました。