「夕方になると、わたしは帰宅して書斎に入る。部屋の入り口で泥とほこりにまみれた百姓着を脱ぎ、いかめしい礼服に着かえ、堂々たるいでたちで古代の人びと
の古代の宮廷へ入っていく。そしてそこで、かれらにやさしく迎えられて、わたしは、わたしだけのものであるあのごちそうを食べるのである。まったくわたし
は、このごちそうを食べるために生まれてきたのだよ。そこでわたしは遠慮なく古代の人びとと語り、かれらの行動の理由を聞くのだが、かれらもこだわりなく
わたしに答えてくれる。この四時間というものは、わたしは日ごろの憂悶を忘れ、苦悩を忘れ、困窮を忘れ、死ぬことさえ気にかからぬ。わたしは古人の世界に
まったく没入しきっているのだ。」
- マキャヴェッリの手紙より (デ・サンクティス『イタリア文学史』 翻訳 在里寛司・藤沢道郎)
ニッコロ・マキャヴェッリの肖像画を見ると、そこには愛嬌のある目差しを投げかけてくる陽気なフィレンツェ人がいます。「まじ
めさと軽薄の、ほとんど不可能な結合」が、この陽気な書記官の精神のうちにはあったといわれています。丁度彼の著書に、真面目な教説と読者を楽しませる話
とが同時に見られるように。
目的が手段を合理化し、成功が蛮行を正当づけるという格言で悪名高いマキャヴェッリですが、デ・サンクティスによると、『君主
論』という小著と、「マキャヴェッリズ
ム」なるものによって彼は矮小化されてしまったのであり、この「ボッカチオ精神に育てられたダンテ」(デ・サンクティス)である人物の偉大さは、正当に評
価されるべきなのです。
シュトラウスによれば、マキャヴェッリという人間の核にあったものは、人間について、人間の条件について、そして人間的な事柄についての考察でし
た。彼はイタリアの精神を腐敗から救おうとしました。それはイタリアを蛮族から自由にするという政治的なものではなく、イタリアの精神的エリートを「有害
な伝統」から解放することで
した。「有害な伝統」は、マキャヴェッリから見れば、あまりに人間の善性を信じすぎ、過度に観念的で空想的、女性的ですらあり、人びとの精神を軟弱なもの
にし
てしまっていました。その伝統として挙げられているものにキリスト教があります。キリスト教は敵に抵抗することより敵を柔軟に受け入れること、苦難に耐え
ることを教え、行動より観想に重きを置くものでした。それらは、マキャヴェッリが祖国に見た破滅と腐敗を導きます。ここに、彼の新しい教説がイタリアに必要な条件が揃います。
「若い知的エリート」たちに、マキャヴェッリは暗示的で謎めいた言葉で話しかけます。それは、読者がそれらに魅せられ気づかな
いうちに、彼の「冒涜」に参加し、邪悪な思想(集団的利己主義)を自分のものとすることを狙ったものでした。マキャヴェッリは、死後何世代かのちに、新し
い予言者として精神的な世界において勝利する事を計画しました。キリスト教がプロパガンダによって異教を打ち負かしたように、彼もキリスト教をプロパガン
ダによって打ち負かせると信じたのです。
マキャヴェッリは社会に向かって問いかけます、「おまえは何であるのか?どこへ行くのか?」。
彼にとって、ヒューマニズムは不十分なものでした。人は自分自身を超えたところに行く存在であり、もし"supra-human"、超人間性へ上昇して行くことができないなら、"sub-human"、人間以下に、下降して行くものとして理解しなければならない、、、。
たとえ私たちがマキャヴェッリの教えが悪魔的なもので、また彼自身が悪魔だったと保証できたとしても、ある深遠な神学的真実を忘れるわけにはいかな
い、とシュ
トラウスは言います。それは悪魔が堕ちた天使だという事です。マキャヴェッリの思想の悪魔的な内容を認識するという事は、かつては高い位階に属した崇高な
精神とその思想の、倒錯してしまった姿を認識する、という事を意味するかもしれないのです。彼にとって、ヒューマニズムは不十分なものでした。人は自分自身を超えたところに行く存在であり、もし"supra-human"、超人間性へ上昇して行くことができないなら、"sub-human"、人間以下に、下降して行くものとして理解しなければならない、、、。