友よ、信じようが信じまいが、耳が聞こえず口がきけなくても、わたしはいつでも永遠の言葉に耳を傾けている。
シレジウス (『シレジウス瞑想詩集 上』岩波文庫より 63 耳が聞こえない者が言葉を聴く。 )
「人間が『言語を学習する』という言い方が意味をなすかどうか、非常に疑問に思う。むしろ、言語は心/脳の中に成長してくるのである。言語獲得は、幼児が行なうこととと言うより、幼児の中に起こってしまうものなのである。」
このチョムスキーの疑問には、なるほどと思いました。私は自分が幼児の頃に障害児ではないかと母親に心配された事を思い出します。「話し始めるのが随分遅かった」らしいのですが、母はそのような私に言葉を学習させようとはしませんでした。(より多く話しかけるとかはしたと思いますが…)基本的には待つしかなかったでしょう。発話能力は赤ん坊に歯が生えてくることのように自然な事で、予め身体に組み込まれている機能が発達してくるものだから…。
言語とは何であるかを説明するために、チョムスキーは二つの伝統的な問題を説明します。一つは「プラトンの問題」で、「人間は、世界との接触が短く、個人的で限られたものであるにもかかわらず、かくも多くのことを知りうるのは、どのようにして可能なのか」と言う問題。もう一つは「デカルトの問題」で、デイビッド・ヒュームの取り組んだ倫理哲学(ヒュームが「人間精神の働きを始動させる秘密の源泉と原理」と定義した科学分野ー哲学と科学が分離していなかった頃の)において探し求められた原理、なぜ人間は有限の能力でもって無限の言語使用を行えるのかという問題です。
プラトンの答えは、私たちには前世からの記憶があると言う想起説でした。ライプニッツはこれを「私たちの知識は心の生得的な機能から導き出される」という答えに修正しました。現代的にいえば、「知識、信条、理解などの認知システムは、遺伝的資質によって決められた形で発達する」ので、心的器官は身体的器官と同様に、その資質が十分で適切な環境にあれば、自然と成長してくるものとなります。一方デカルトの答えは、「未だに全く神秘に閉ざされている。この問題は、デカルトが時折示唆していたように、人間知性の限界を超えたものなのかもしれない。」…。
ところで、もっと話を基本的なところから始めるとすると、そもそも人間とはいかなる有機生命体か、そしてこの人間という特異な種にとって言語は何の為にあるのか、と言う疑問があります。チョムスキーによれば、言語はこれまで言われていたようにコミュニケーションの為に発達した道具ではなく、思考の道具として機能する認知システムで、…過去の哲学者たちとともに考察し探求し続ける価値のある大きな謎なのです。
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