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Tuesday, 3 October 2023

完徳の猫

 「もういつ死んでもおかしくないんだよ」私は、幼少時より、何匹もの猫を飼ってきたという家人のその言葉を、全くそのままに理解して、いつもの誇張表現だとは思わなかったのです。

2007年より飼っていたのは平凡な毛並みの日本猫の雑種、茶白の猫です。名前は、私が提案した「ルーミー」、歌うようにも呼べるイスラーム神秘主義詩人に因んだ名を、夫もすぐに気に入ったようでした。

34年前に突然腰を痛め、ヘルニアのような症状で苦しんだルーミーでしたが、動物病院で原因ははっきりしないけれども、痛み止めの注射を打ってもらった後は調子を取り戻し、時々走ったりもしていました。ただ、死ぬまでびっこは引いていましたが。その際、一度は死を覚悟したらしいルーミーですが(暗くて狭い場所に入り込んだりした)、しばらくすると、以前とは異なる行動をするようになります。廊下を徘徊しながらの夜泣き、過剰なスキンシップ(夫限定)、夜中に書斎でひとりぼんやりと座る、などです。

確かに、年を重ねるにつれて、私もルーミーも、いずれ別れの日が訪れることを理解していました。私は猫に親しい夫の「いつ死んでもおかしくない」という言葉に納得しようとしていました(ルーミーは私にとって初めての飼い猫でした)。しかし予感しつつも、それには備えずにいました。一方、ルーミーはこの現実に、知恵と平静を持って向き合っていたと思います。自分の先に待つものと和解していることは明らかでした。

全く、小憎らしいほどにルーミーの動物としての知性は私のものを超えているとしか思えません。数週間、もしかしたら数ヶ月かけて準備された旅立ちは、人の干渉する余地を残さない優雅なものでした。101日の朝、私が書斎を覗くといつもの、顎を座布団の縁に乗せ前足を軽く曲げ、足は自然に伸ばした寝姿で、絶命していました。私は早くも腐敗臭を放ちつつある、しかし温かさを残していた体を抱き上げて嗚咽しました。17年の間に、二人の人間を幸福にするという難事をやりとげた猫の重み


ルーミーは私たちから去る日まで、毎日の日課や、愛され大事にされる事を楽しんでいました。それから、自分を見るだけでたわいもなく笑顔になる二人が、同時に熟睡する時間、朝の四時から七時くらいまでの限られた時間を狙い、ひとりゆったりと眠りにつきました。




強引にテレワーク中の私の隣に座ってくるルーミー。



狭いスペースでも座る。




ネット会議があると、時々参加しました。




同僚に「大きな猫ですね」と言われました、確かに5.5キロあり、伸びると長い身体でした。



一人でぼんやり座っているルーミー。


桶のような爪研ぎボックスにはまるのも好きでした。


夏の日差しに目を細めるルーミー。

手が可愛い。



Sunday, 9 May 2021

『言語と認知』ノーム・チョムスキー / Language in a Psychological Setting by Noam Chomsky


友よ、信じようが信じまいが、耳が聞こえず口がきけなくても、わたしはいつでも永遠の言葉に耳を傾けている。

 シレジウス (『シレジウス瞑想詩集 上』岩波文庫より 63 耳が聞こえない者が言葉を聴く。 )




 「人間が『言語を学習する』という言い方が意味をなすかどうか、非常に疑問に思う。むしろ、言語は心/脳の中に成長してくるのである。言語獲得は、幼児が行なうこととと言うより、幼児の中に起こってしまうものなのである。」 

 このチョムスキーの疑問には、なるほどと思いました。私は自分が幼児の頃に障害児ではないかと母親に心配された事を思い出します。「話し始めるのが随分遅かった」らしいのですが、母はそのような私に言葉を学習させようとはしませんでした。(より多く話しかけるとかはしたと思いますが…)基本的には待つしかなかったでしょう。発話能力は赤ん坊に歯が生えてくることのように自然な事で、予め身体に組み込まれている機能が発達してくるものだから…。 

 言語とは何であるかを説明するために、チョムスキーは二つの伝統的な問題を説明します。一つは「プラトンの問題」で、「人間は、世界との接触が短く、個人的で限られたものであるにもかかわらず、かくも多くのことを知りうるのは、どのようにして可能なのか」と言う問題。もう一つは「デカルトの問題」で、デイビッド・ヒュームの取り組んだ倫理哲学(ヒュームが「人間精神の働きを始動させる秘密の源泉と原理」と定義した科学分野ー哲学と科学が分離していなかった頃の)において探し求められた原理、なぜ人間は有限の能力でもって無限の言語使用を行えるのかという問題です。 

 プラトンの答えは、私たちには前世からの記憶があると言う想起説でした。ライプニッツはこれを「私たちの知識は心の生得的な機能から導き出される」という答えに修正しました。現代的にいえば、「知識、信条、理解などの認知システムは、遺伝的資質によって決められた形で発達する」ので、心的器官は身体的器官と同様に、その資質が十分で適切な環境にあれば、自然と成長してくるものとなります。一方デカルトの答えは、「未だに全く神秘に閉ざされている。この問題は、デカルトが時折示唆していたように、人間知性の限界を超えたものなのかもしれない。」…。 

 ところで、もっと話を基本的なところから始めるとすると、そもそも人間とはいかなる有機生命体か、そしてこの人間という特異な種にとって言語は何の為にあるのか、と言う疑問があります。チョムスキーによれば、言語はこれまで言われていたようにコミュニケーションの為に発達した道具ではなく、思考の道具として機能する認知システムで、…過去の哲学者たちとともに考察し探求し続ける価値のある大きな謎なのです。


Monday, 6 May 2019

歴史と終末論 R.K.ブルトマン / HISTORY AND ESCHATOLOGY BY R.K.BULTMANN


世紀の大連休の最終日を迎え、予想以上に憂鬱な気持ちなのですが、明日はどうでも出勤して愛猫のご飯代、ついでに(?)自分達の分を稼がねばなりません。いったい、どうすれば人はー例えば変わりばえしない毎日を過ごす会社員の自分などはー相対主義やニヒリズムに沈むこと無く、自分の真の生を実現し「真の実存」を獲得出来るのか、とブルトマンに問えば、こんな答えが返ってくるかも知れません。歴史的・実存的認識を獲得し教会の戒律に従ってみたら、と。
この回答の背景を見る為に、パウル・ティリッヒの以下の言葉を思い出してみます。「神学・聖書学者の、何と軽率に『歴史』という用語を使うことでしょうか。例えば、キリスト教を『歴史』的宗教と述べる時など。彼らは『歴史』という単語にリンクしている内容が、何千年にもわたる史書および歴史哲学により形成された事を忘れているのです。『歴史』的存在が、ある特殊な存在であり、『自然』やその他と区別される存在である事、それから『歴史』の問題が、時間や自由、偶然(それぞれ歴史の概念同様に展開されてきた概念)の問題と結びついている事を忘れているのです。神学者はこれらの用語の意味を真剣に考え、深さにおいても広さにおいても十全に理解したうえで使うべきです。…」(*Systematic Theology, vol. Iより適当に訳しました)

ブルトマンは、この本でキリスト教的終末論を「歴史」より上位に置いて説明して行きます。最終章は使徒的な呼びかけと言ったら良いか、思わず近寄ってみたくなるような力強い読者への呼びかけで締めくくられています。と同時に、唐突に示される堅い信仰心には、一歩引かずにはいられない戸惑いも感じてしまいます。
なお、ブルトマンが支持する歴史的認識は、預言者の体験を自身のうちに再生するというイスラームの神秘主義者の試みにも似て相当に難度が高いのですが、後日自分も試みるために(!)引用しておきます。

真の歴史的な問いは主観、すなわち己れの責任を感じる人間の歴史的な感動(historical emotion) から生じる。したがって、歴史的研究は歴史現象のただ中で人間に出会う主張に耳を傾ける準備のあることを含むのである。 (-中略-)真の歴史的認識は理解する主体が真に生き生きとして、彼の個性を展開することを要求する。歴史への参与によってゆり動かされる歴史家(-中略-)このような歴史家のみが歴史を理解しうるであろう。 この意味で、最も主観的な歴史解釈が同時に最も客観的である。己れの歴史的実存によって動かされる歴史家のみが歴史の要求をきくことができるであろう。
R.G.コリングウッドが次のように言うとき、それはこの意味においてである。「歴史の探求が歴史家に彼自身の精神の力を顕わにする。このようにして、歴史は生ける精神の自己認識である。というのは、歴史家の学ぶできごとが遥か過去に起こったできごとである場合ですら、それらのできごとが歴史的に認識されているというための条件は、それらが『歴史家の精神のうちで鼓動する』ということである。(R.G.Collingwood, 歴史の観念) 」


R.K.ブルトマン (著), 中川 秀恭 (翻訳)と、眠る愛猫

Saturday, 24 March 2018

『共感脳』The Empathic Brain by Christian Keysers



1980年代から90年代にかけて、イタリアのパルマ大学で、神経生理学者達がある発見をしました。それは、サルの目の前で研究者がレーズンを手に取って見せた時のことです。サルの脳に差し込まれた髪の毛ほどの細い電極が、脳細胞の興奮、「発砲」を感知しました。それを「…non, può essere!(あり得ない!)」と見ていた研究者が叫んだのは、その脳細胞の活動が、サル自身が同じようにレーズンを手に取った時に見られるのと全く同じものだったからです。こうして、後年ある神経科学者がジェームズ・ ワトソンとフランシス・クリックのDNA二重らせん構造の発見と比較するような、革新的な発見がなされたのでした。;脳には、自分が見た行為を、自分がまるで行っているかのように脳内に映し出す機能を持った脳細胞、鏡のようなミラーニューロンがあるという発見です。
ここから様々な実験を経て、人の運動においてミラーニューロンが働くように、人の情動においても同じように働く脳の一連の機能が発見され、「shared circuit(共有回路)」と名付けられました。
ところで、私はラブコメ映画が好きです。まず、ヒロインとヒーローはお互いに、いい感情を持たないところから話が始まります。『プライドと偏見』は理想的な筋立てです。紆余曲折、どんでん返し、感情の反転を経て気分が高まってゆくのですが、その気分の高まりは、ミラーニューロン、シェアードサーキットを発見したチームによれば、私の脳内に「物語の人々の経験」がフィクションとしてではなく「自分の経験」として、現実の感情が再現されているが故のものなのです。例えば、私に辛い失恋、片想い、そして夢のような相愛の経験があったとして似たような物語を見た場合、過去にその経験で興奮した脳細胞、興奮回路が刺激され活動し、共感する可能性は大でしょう。反対に、同様の、あるいは多少でも似たような感情を自身の中に持ったことが無ければきっとラブコメ映画や恋愛小説は退屈で耐えられないものに違いありません。
神経生理学者は、共感とは他人の気持ちを理解・認識することではなく、自分自身の中に同じ感情を引き起こすことだと言います。共感のための脳細胞、一連の脳の活動が、他人の感情を察知し、自分の中に映し出し、同じ感情を引き起こし、そして本当の意味で他人の気持ちを理解することを可能にしていると。

「ダンテ的精神のみが、ダンテを理解できる」

ありふれた事にも思えますが、時空を超えて、他人が持ったある特定の感情、ある精神活動に共感するという事は、実は気が遠くなるような可能性の中からの実現ではないでしょうか。自分の頭蓋骨に収まっている器官(宇宙でただ一つのユニークな構造を持っているもの)が、他のこれもまた唯一の器官の内部で起った活動に共鳴し、同じ振り幅で心を震わせる、まるで自分の精神に他の精神を呼び出すなどという事はー例えそれがダンテでなくともー奇跡的な事のように思えるのです。


Friday, 20 September 2013

『マキャヴェッリについての考察』 レオ・シュトラウス / Thoughts on Machiavelli by Leo Strauss



「夕方になると、わたしは帰宅して書斎に入る。部屋の入り口で泥とほこりにまみれた百姓着を脱ぎ、いかめしい礼服に着かえ、堂々たるいでたちで古代の人びと の古代の宮廷へ入っていく。そしてそこで、かれらにやさしく迎えられて、わたしは、わたしだけのものであるあのごちそうを食べるのである。まったくわたし は、このごちそうを食べるために生まれてきたのだよ。そこでわたしは遠慮なく古代の人びとと語り、かれらの行動の理由を聞くのだが、かれらもこだわりなく わたしに答えてくれる。この四時間というものは、わたしは日ごろの憂悶を忘れ、苦悩を忘れ、困窮を忘れ、死ぬことさえ気にかからぬ。わたしは古人の世界に まったく没入しきっているのだ。」
- マキャヴェッリの手紙より (デ・サンクティス『イタリア文学史』 翻訳 在里寛司・藤沢道郎)

ニッコロ・マキャヴェッリの肖像画を見ると、そこには愛嬌のある目差しを投げかけてくる陽気なフィレンツェ人がいます。「まじ めさと軽薄の、ほとんど不可能な結合」が、この陽気な書記官の精神のうちにはあったといわれています。丁度彼の著書に、真面目な教説と読者を楽しませる話 とが同時に見られるように。
目的が手段を合理化し、成功が蛮行を正当づけるという格言で悪名高いマキャヴェッリですが、デ・サンクティスによると、『君主 論』という小著と、「マキャヴェッリズ ム」なるものによって彼は矮小化されてしまったのであり、この「ボッカチオ精神に育てられたダンテ」(デ・サンクティス)である人物の偉大さは、正当に評 価されるべきなのです。
シュトラウスによれば、マキャヴェッリという人間の核にあったものは、人間について、人間の条件について、そして人間的な事柄についての考察でし た。彼はイタリアの精神を腐敗から救おうとしました。それはイタリアを蛮族から自由にするという政治的なものではなく、イタリアの精神的エリートを「有害 な伝統」から解放することで した。「有害な伝統」は、マキャヴェッリから見れば、あまりに人間の善性を信じすぎ、過度に観念的で空想的、女性的ですらあり、人びとの精神を軟弱なもの にし てしまっていました。その伝統として挙げられているものにキリスト教があります。キリスト教は敵に抵抗することより敵を柔軟に受け入れること、苦難に耐え ることを教え、行動より観想に重きを置くものでした。それらは、マキャヴェッリが祖国に見た破滅と腐敗を導きます。
ここに、彼の新しい教説がイタリアに必要な条件が揃います。
「若い知的エリート」たちに、マキャヴェッリは暗示的で謎めいた言葉で話しかけます。それは、読者がそれらに魅せられ気づかな いうちに、彼の「冒涜」に参加し、邪悪な思想(集団的利己主義)を自分のものとすることを狙ったものでした。マキャヴェッリは、死後何世代かのちに、新し い予言者として精神的な世界において勝利する事を計画しました。キリスト教がプロパガンダによって異教を打ち負かしたように、彼もキリスト教をプロパガン ダによって打ち負かせると信じたのです。
マキャヴェッリは社会に向かって問いかけます、「おまえは何であるのか?どこへ行くのか?」。
彼にとって、ヒューマニズムは不十分なものでした。人は自分自身を超えたところに行く存在であり、もし"supra-human"、超人間性へ上昇して行くことができないなら、"sub-human"、人間以下に、下降して行くものとして理解しなければならない、、、。
たとえ私たちがマキャヴェッリの教えが悪魔的なもので、また彼自身が悪魔だったと保証できたとしても、ある深遠な神学的真実を忘れるわけにはいかな い、とシュ トラウスは言います。それは悪魔が堕ちた天使だという事です。マキャヴェッリの思想の悪魔的な内容を認識するという事は、かつては高い位階に属した崇高な 精神とその思想の、倒錯してしまった姿を認識する、という事を意味するかもしれないのです。