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Wednesday, 15 July 2026

夜の第一時 —— ガリレオの一枚を探して

ラトゥールのスーリオ論を読んでいた。


ブリュノ・ラトゥールは現代フランスの哲学者で、エティエンヌ・スーリオは、彼が受け継ごうとした哲学者だ。正直、数日前まで二人とも知らなかった。

途中で、ほんの数行だけ、ガリレオの手稿について触れているところがある。


左上には月。

右下にはコジモ・デ・メディチのための星占い。


ラトゥールは、その一枚を、近代があとから切り分けてしまった世界の象徴として紹介していた。

論文全体から見れば、小さな挿話だった。それでも、その数行は翌日になっても気になっていた。本当に、そんなページがあるのだろうか。


AIに書誌調査を手伝ってもらいながら、ラトゥールが引用した一枚の手稿を探した。脚注は別の本へ、本はさらに別の論文へ続いていく。そうして辿り着いたのが、フィレンツェ国立中央図書館のデジタル・アーカイブだった。


Galileiani。347件。Gal.48。


数字だけが並ぶ目録を、一つずつ開いていく。


その頃には、ラトゥールの文章を確かめているというより、一枚の紙を探している気持ちになっていた。


目的のページが現れたとき、最初に目に入ったのは、古びた紙の上の月だった。

少し歪んだ輪郭。重ねられた紙。薄い染み。

そして、その下にホロスコープがあった。


画像だけでは、星の名前は分からない。下の図がコジモ二世の出生図であることも、僕には読み取れない。それは科学史研究者たちが、長い時間をかけて解読してきた成果だった。

宮廷の出生記録と照らし合わせ、その図は「夜の第一時」に生まれたコジモ二世のものだと考えられるようになった。


現代人の目には、上の月と下のホロスコープは、まるで別の時代に属するもののように見える。だからこそ、ホロスコープは科学の外側に置かれた迷信の名残のようにも思えてしまう。


けれども実際には、それは迷信の残滓ではなかった。当時の宮廷数学者という職務そのものの痕跡だった。望遠鏡による発見と占星術的な計算は、同じ紙の上で分かちがたく行われていた。


手稿の調査を始めたとき、ガリレオは歴史上の人物だった。望遠鏡を作り、月を観測した科学者。そのくらいの距離だった。でも、引用されたそのページを探して図書館の目録を辿り、画面の中で手稿を見ているうちに、少しだけ距離が変わった。


月の水彩画の上には、迷いなく引かれた筆の跡がある。その下には、宮廷のために計算したホロスコープがある。

そこには、教科書で読む歴史上の人物ではなく、一枚の紙の上で観測し、計算し、考えていた一人の人間がいた。


ラトゥールは、「ガリレオのページ全体を受け継ぎたい」と書いた。

最初に読んだとき、その言葉は哲学についてだった。

でも今は、少し違って読める。


「全体」とは、月だけでも、ホロスコープだけでもない。


紙の古色が語る時間、貼り込まれた紙片、水彩の滲みまで含めて、一人の人間が考え、仕事をした跡そのものなのかもしれない。


ブラウザのそのページを閉じた頃には、ガリレオは少しだけ近い人になっていた。



フィレンツェ国立中央図書館 デジタル・アーカイブ


http://teca.bncf.firenze.sbn.it/ImageViewer/servlet/ImageViewer?idr=BNCF0003670430


ラトゥールが「受け継ぎたい」と書いた、ガリレオの一枚。

左上には月。下にはコジモ二世のホロスコープ。

フィレンツェ国立中央図書館デジタル・アーカイブ(Ms. Gal. 48)。





Tuesday, 3 October 2023

完徳の猫

 「もういつ死んでもおかしくないんだよ」私は、幼少時より、何匹もの猫を飼ってきたという家人のその言葉を、全くそのままに理解して、いつもの誇張表現だとは思わなかったのです。

2007年より飼っていたのは平凡な毛並みの日本猫の雑種、茶白の猫です。名前は、私が提案した「ルーミー」、歌うようにも呼べるイスラーム神秘主義詩人に因んだ名を、夫もすぐに気に入ったようでした。

34年前に突然腰を痛め、ヘルニアのような症状で苦しんだルーミーでしたが、動物病院で原因ははっきりしないけれども、痛み止めの注射を打ってもらった後は調子を取り戻し、時々走ったりもしていました。ただ、死ぬまでびっこは引いていましたが。その際、一度は死を覚悟したらしいルーミーですが(暗くて狭い場所に入り込んだりした)、しばらくすると、以前とは異なる行動をするようになります。廊下を徘徊しながらの夜泣き、過剰なスキンシップ(夫限定)、夜中に書斎でひとりぼんやりと座る、などです。

確かに、年を重ねるにつれて、私もルーミーも、いずれ別れの日が訪れることを理解していました。私は猫に親しい夫の「いつ死んでもおかしくない」という言葉に納得しようとしていました(ルーミーは私にとって初めての飼い猫でした)。しかし予感しつつも、それには備えずにいました。一方、ルーミーはこの現実に、知恵と平静を持って向き合っていたと思います。自分の先に待つものと和解していることは明らかでした。

全く、小憎らしいほどにルーミーの動物としての知性は私のものを超えているとしか思えません。数週間、もしかしたら数ヶ月かけて準備された旅立ちは、人の干渉する余地を残さない優雅なものでした。101日の朝、私が書斎を覗くといつもの、顎を座布団の縁に乗せ前足を軽く曲げ、足は自然に伸ばした寝姿で、絶命していました。私は早くも腐敗臭を放ちつつある、しかし温かさを残していた体を抱き上げて嗚咽しました。17年の間に、二人の人間を幸福にするという難事をやりとげた猫の重み


ルーミーは私たちから去る日まで、毎日の日課や、愛され大事にされる事を楽しんでいました。それから、自分を見るだけでたわいもなく笑顔になる二人が、同時に熟睡する時間、朝の四時から七時くらいまでの限られた時間を狙い、ひとりゆったりと眠りにつきました。




強引にテレワーク中の私の隣に座ってくるルーミー。



狭いスペースでも座る。




ネット会議があると、時々参加しました。




同僚に「大きな猫ですね」と言われました、確かに5.5キロあり、伸びると長い身体でした。



一人でぼんやり座っているルーミー。


桶のような爪研ぎボックスにはまるのも好きでした。


夏の日差しに目を細めるルーミー。

手が可愛い。



Sunday, 9 May 2021

『言語と認知』ノーム・チョムスキー / Language in a Psychological Setting by Noam Chomsky


友よ、信じようが信じまいが、耳が聞こえず口がきけなくても、わたしはいつでも永遠の言葉に耳を傾けている。

 シレジウス (『シレジウス瞑想詩集 上』岩波文庫より 63 耳が聞こえない者が言葉を聴く。 )




 「人間が『言語を学習する』という言い方が意味をなすかどうか、非常に疑問に思う。むしろ、言語は心/脳の中に成長してくるのである。言語獲得は、幼児が行なうこととと言うより、幼児の中に起こってしまうものなのである。」 

 このチョムスキーの疑問には、なるほどと思いました。私は自分が幼児の頃に障害児ではないかと母親に心配された事を思い出します。「話し始めるのが随分遅かった」らしいのですが、母はそのような私に言葉を学習させようとはしませんでした。(より多く話しかけるとかはしたと思いますが…)基本的には待つしかなかったでしょう。発話能力は赤ん坊に歯が生えてくることのように自然な事で、予め身体に組み込まれている機能が発達してくるものだから…。 

 言語とは何であるかを説明するために、チョムスキーは二つの伝統的な問題を説明します。一つは「プラトンの問題」で、「人間は、世界との接触が短く、個人的で限られたものであるにもかかわらず、かくも多くのことを知りうるのは、どのようにして可能なのか」と言う問題。もう一つは「デカルトの問題」で、デイビッド・ヒュームの取り組んだ倫理哲学(ヒュームが「人間精神の働きを始動させる秘密の源泉と原理」と定義した科学分野ー哲学と科学が分離していなかった頃の)において探し求められた原理、なぜ人間は有限の能力でもって無限の言語使用を行えるのかという問題です。 

 プラトンの答えは、私たちには前世からの記憶があると言う想起説でした。ライプニッツはこれを「私たちの知識は心の生得的な機能から導き出される」という答えに修正しました。現代的にいえば、「知識、信条、理解などの認知システムは、遺伝的資質によって決められた形で発達する」ので、心的器官は身体的器官と同様に、その資質が十分で適切な環境にあれば、自然と成長してくるものとなります。一方デカルトの答えは、「未だに全く神秘に閉ざされている。この問題は、デカルトが時折示唆していたように、人間知性の限界を超えたものなのかもしれない。」…。 

 ところで、もっと話を基本的なところから始めるとすると、そもそも人間とはいかなる有機生命体か、そしてこの人間という特異な種にとって言語は何の為にあるのか、と言う疑問があります。チョムスキーによれば、言語はこれまで言われていたようにコミュニケーションの為に発達した道具ではなく、思考の道具として機能する認知システムで、…過去の哲学者たちとともに考察し探求し続ける価値のある大きな謎なのです。


Monday, 6 May 2019

歴史と終末論 R.K.ブルトマン / HISTORY AND ESCHATOLOGY BY R.K.BULTMANN


世紀の大連休の最終日を迎え、予想以上に憂鬱な気持ちなのですが、明日はどうでも出勤して愛猫のご飯代、ついでに(?)自分達の分を稼がねばなりません。いったい、どうすれば人はー例えば変わりばえしない毎日を過ごす会社員の自分などはー相対主義やニヒリズムに沈むこと無く、自分の真の生を実現し「真の実存」を獲得出来るのか、とブルトマンに問えば、こんな答えが返ってくるかも知れません。歴史的・実存的認識を獲得し教会の戒律に従ってみたら、と。
この回答の背景を見る為に、パウル・ティリッヒの以下の言葉を思い出してみます。「神学・聖書学者の、何と軽率に『歴史』という用語を使うことでしょうか。例えば、キリスト教を『歴史』的宗教と述べる時など。彼らは『歴史』という単語にリンクしている内容が、何千年にもわたる史書および歴史哲学により形成された事を忘れているのです。『歴史』的存在が、ある特殊な存在であり、『自然』やその他と区別される存在である事、それから『歴史』の問題が、時間や自由、偶然(それぞれ歴史の概念同様に展開されてきた概念)の問題と結びついている事を忘れているのです。神学者はこれらの用語の意味を真剣に考え、深さにおいても広さにおいても十全に理解したうえで使うべきです。…」(*Systematic Theology, vol. Iより適当に訳しました)

ブルトマンは、この本でキリスト教的終末論を「歴史」より上位に置いて説明して行きます。最終章は使徒的な呼びかけと言ったら良いか、思わず近寄ってみたくなるような力強い読者への呼びかけで締めくくられています。と同時に、唐突に示される堅い信仰心には、一歩引かずにはいられない戸惑いも感じてしまいます。
なお、ブルトマンが支持する歴史的認識は、預言者の体験を自身のうちに再生するというイスラームの神秘主義者の試みにも似て相当に難度が高いのですが、後日自分も試みるために(!)引用しておきます。

真の歴史的な問いは主観、すなわち己れの責任を感じる人間の歴史的な感動(historical emotion) から生じる。したがって、歴史的研究は歴史現象のただ中で人間に出会う主張に耳を傾ける準備のあることを含むのである。 (-中略-)真の歴史的認識は理解する主体が真に生き生きとして、彼の個性を展開することを要求する。歴史への参与によってゆり動かされる歴史家(-中略-)このような歴史家のみが歴史を理解しうるであろう。 この意味で、最も主観的な歴史解釈が同時に最も客観的である。己れの歴史的実存によって動かされる歴史家のみが歴史の要求をきくことができるであろう。
R.G.コリングウッドが次のように言うとき、それはこの意味においてである。「歴史の探求が歴史家に彼自身の精神の力を顕わにする。このようにして、歴史は生ける精神の自己認識である。というのは、歴史家の学ぶできごとが遥か過去に起こったできごとである場合ですら、それらのできごとが歴史的に認識されているというための条件は、それらが『歴史家の精神のうちで鼓動する』ということである。(R.G.Collingwood, 歴史の観念) 」


R.K.ブルトマン (著), 中川 秀恭 (翻訳)と、眠る愛猫

Saturday, 24 March 2018

『共感脳』The Empathic Brain by Christian Keysers



1980年代から90年代にかけて、イタリアのパルマ大学で、神経生理学者達がある発見をしました。それは、サルの目の前で研究者がレーズンを手に取って見せた時のことです。サルの脳に差し込まれた髪の毛ほどの細い電極が、脳細胞の興奮、「発砲」を感知しました。それを「…non, può essere!(あり得ない!)」と見ていた研究者が叫んだのは、その脳細胞の活動が、サル自身が同じようにレーズンを手に取った時に見られるのと全く同じものだったからです。こうして、後年ある神経科学者がジェームズ・ ワトソンとフランシス・クリックのDNA二重らせん構造の発見と比較するような、革新的な発見がなされたのでした。;脳には、自分が見た行為を、自分がまるで行っているかのように脳内に映し出す機能を持った脳細胞、鏡のようなミラーニューロンがあるという発見です。
ここから様々な実験を経て、人の運動においてミラーニューロンが働くように、人の情動においても同じように働く脳の一連の機能が発見され、「shared circuit(共有回路)」と名付けられました。
ところで、私はラブコメ映画が好きです。まず、ヒロインとヒーローはお互いに、いい感情を持たないところから話が始まります。『プライドと偏見』は理想的な筋立てです。紆余曲折、どんでん返し、感情の反転を経て気分が高まってゆくのですが、その気分の高まりは、ミラーニューロン、シェアードサーキットを発見したチームによれば、私の脳内に「物語の人々の経験」がフィクションとしてではなく「自分の経験」として、現実の感情が再現されているが故のものなのです。例えば、私に辛い失恋、片想い、そして夢のような相愛の経験があったとして似たような物語を見た場合、過去にその経験で興奮した脳細胞、興奮回路が刺激され活動し、共感する可能性は大でしょう。反対に、同様の、あるいは多少でも似たような感情を自身の中に持ったことが無ければきっとラブコメ映画や恋愛小説は退屈で耐えられないものに違いありません。
神経生理学者は、共感とは他人の気持ちを理解・認識することではなく、自分自身の中に同じ感情を引き起こすことだと言います。共感のための脳細胞、一連の脳の活動が、他人の感情を察知し、自分の中に映し出し、同じ感情を引き起こし、そして本当の意味で他人の気持ちを理解することを可能にしていると。

「ダンテ的精神のみが、ダンテを理解できる」

ありふれた事にも思えますが、時空を超えて、他人が持ったある特定の感情、ある精神活動に共感するという事は、実は気が遠くなるような可能性の中からの実現ではないでしょうか。自分の頭蓋骨に収まっている器官(宇宙でただ一つのユニークな構造を持っているもの)が、他のこれもまた唯一の器官の内部で起った活動に共鳴し、同じ振り幅で心を震わせる、まるで自分の精神に他の精神を呼び出すなどという事はー例えそれがダンテでなくともー奇跡的な事のように思えるのです。


Friday, 20 September 2013

『マキャヴェッリについての考察』 レオ・シュトラウス / Thoughts on Machiavelli by Leo Strauss



「夕方になると、わたしは帰宅して書斎に入る。部屋の入り口で泥とほこりにまみれた百姓着を脱ぎ、いかめしい礼服に着かえ、堂々たるいでたちで古代の人びと の古代の宮廷へ入っていく。そしてそこで、かれらにやさしく迎えられて、わたしは、わたしだけのものであるあのごちそうを食べるのである。まったくわたし は、このごちそうを食べるために生まれてきたのだよ。そこでわたしは遠慮なく古代の人びとと語り、かれらの行動の理由を聞くのだが、かれらもこだわりなく わたしに答えてくれる。この四時間というものは、わたしは日ごろの憂悶を忘れ、苦悩を忘れ、困窮を忘れ、死ぬことさえ気にかからぬ。わたしは古人の世界に まったく没入しきっているのだ。」
- マキャヴェッリの手紙より (デ・サンクティス『イタリア文学史』 翻訳 在里寛司・藤沢道郎)

ニッコロ・マキャヴェッリの肖像画を見ると、そこには愛嬌のある目差しを投げかけてくる陽気なフィレンツェ人がいます。「まじ めさと軽薄の、ほとんど不可能な結合」が、この陽気な書記官の精神のうちにはあったといわれています。丁度彼の著書に、真面目な教説と読者を楽しませる話 とが同時に見られるように。
目的が手段を合理化し、成功が蛮行を正当づけるという格言で悪名高いマキャヴェッリですが、デ・サンクティスによると、『君主 論』という小著と、「マキャヴェッリズ ム」なるものによって彼は矮小化されてしまったのであり、この「ボッカチオ精神に育てられたダンテ」(デ・サンクティス)である人物の偉大さは、正当に評 価されるべきなのです。
シュトラウスによれば、マキャヴェッリという人間の核にあったものは、人間について、人間の条件について、そして人間的な事柄についての考察でし た。彼はイタリアの精神を腐敗から救おうとしました。それはイタリアを蛮族から自由にするという政治的なものではなく、イタリアの精神的エリートを「有害 な伝統」から解放することで した。「有害な伝統」は、マキャヴェッリから見れば、あまりに人間の善性を信じすぎ、過度に観念的で空想的、女性的ですらあり、人びとの精神を軟弱なもの にし てしまっていました。その伝統として挙げられているものにキリスト教があります。キリスト教は敵に抵抗することより敵を柔軟に受け入れること、苦難に耐え ることを教え、行動より観想に重きを置くものでした。それらは、マキャヴェッリが祖国に見た破滅と腐敗を導きます。
ここに、彼の新しい教説がイタリアに必要な条件が揃います。
「若い知的エリート」たちに、マキャヴェッリは暗示的で謎めいた言葉で話しかけます。それは、読者がそれらに魅せられ気づかな いうちに、彼の「冒涜」に参加し、邪悪な思想(集団的利己主義)を自分のものとすることを狙ったものでした。マキャヴェッリは、死後何世代かのちに、新し い予言者として精神的な世界において勝利する事を計画しました。キリスト教がプロパガンダによって異教を打ち負かしたように、彼もキリスト教をプロパガン ダによって打ち負かせると信じたのです。
マキャヴェッリは社会に向かって問いかけます、「おまえは何であるのか?どこへ行くのか?」。
彼にとって、ヒューマニズムは不十分なものでした。人は自分自身を超えたところに行く存在であり、もし"supra-human"、超人間性へ上昇して行くことができないなら、"sub-human"、人間以下に、下降して行くものとして理解しなければならない、、、。
たとえ私たちがマキャヴェッリの教えが悪魔的なもので、また彼自身が悪魔だったと保証できたとしても、ある深遠な神学的真実を忘れるわけにはいかな い、とシュ トラウスは言います。それは悪魔が堕ちた天使だという事です。マキャヴェッリの思想の悪魔的な内容を認識するという事は、かつては高い位階に属した崇高な 精神とその思想の、倒錯してしまった姿を認識する、という事を意味するかもしれないのです。

Monday, 9 July 2012

『スーフィー論集』 S.R.ナスル / "Sufi Essays" by Seyyed Hossein Nasr

確かにわれは人を最も美しい姿に創った。
そして彼を最も低い身分へと落とした。
(クルアーン 95章 4-5)

自らの限界を超えようとする努力は、宇宙旅行にせよ薬物によるトリップにせよ、人がかつて享受していた「完全な状態」を忘れられず、また最も低く落とされた状態に満足することもできない証ではないか、とS.H.ナスルはこの本で書いています。
「もしまだ人が完全な状態で存在していたなら、人はそれ以上何も望むことはないでしょう。また、動物や植物と同様に感覚的な世界だけに生きることが自然で本来的なものなら、その場合もまた人はそこに留まるでしょう。」
しかし、(とナスルは続けます)クルアーンに記されているように、人はそもそも「最も美しい姿」に、「神の似姿として造られた」のであり、いつの時代に あっても、ある高みをめざそうとする努力が地上で絶えたことはないのです。人であるということは、人である状態を超越しようとし続けることであり、あるが ままの状態に留まり満足するということは人間以下の状態への堕落ですらあると言います。
宇宙旅行や薬物による超越が代替でしかないとしたら、人はどこへ真の超越を求めて向かえばいいのでしょうか。
ナスルによれば、向かうべきは神から来た道ー啓示宗教における神秘主義であり、これを辿ることによってのみ、人的限界を超えようとする神秘的探求は成功へ導かれ得るのだそうです。
似非神秘主義の目的が精神の崩壊・分解であるのに対し、真の神秘主 義の目的は神的原型への同化にあります。(ここで神秘的(mystical)であるとは、本来の意味においてであり、それは神聖な神秘’divine mysteries’、知性と理性の源に関わり、個人の非合理的な感傷や幻想、オカルティズムなどとは無縁のもの、と言われます。)
スーフィズムはイスラームにあってそのような完成-神的原型への同化へ至る道(真の神秘主義)のひとつであり、人々に自分が本当は何者であるかを思い出させようとするものなのです。

(2019.09.21)
ところで、先日デンゼル・ワシントン主演の「Flight」(2012)を見ました。終盤に主人公は難しい質問を投げかけられます。試練を乗り越えたこの映画の主人公は、 good question, と時間を稼ぐのですが、そのあとどう続けたのか…気になりました。

Sunday, 23 May 2010

『パリでいっしょに』 エドマンド・ホワイト/Our Paris Sketches from Memory Edmund White and Hubert Sorin

エドマンド・ホワイトは、(同性の)恋人、ユベール・ソランとパリで暮らしました。
1993年、彼らが同居する為に移り住んだアパルトマンの場所はパリの中心地で、シャトレ駅から歩いてすぐのロンパール通り(Rue des Lombards)にあります。
エドマンドの書斎の窓のすぐ下では、品のいい奥様といった感じの年配の娼婦が七、八人、交代で「営業」しています。すぐ側のサン・マルタ ン通りをいけば、浮浪者が周りをうろついているサン・メリ教会があります。
売春婦や浮浪者、旅行者、芸術家、地元の人々などが行きかう賑やかなこの界隈は、二人にとって居心地がよかったようです。調べてみると、マレ地区は当時からゲイが多いということで、それも当然だったかも知れません。
Rue des Lombards の地図 (http://bit.ly/bcyERX)
エドマンドの序文は、1994年、まだ32歳だったユベールの死のわずか2時間後に書かれました。ユベールは、「オーブリー・ビアズリーの絵にファ ラオの風格が備わった」(エドマンド)イラストを描く、すらりとしたダンディーでハンサムな青年です。(1962年生まれ。エドマンドは1940年生ま れ)
二人の共同作業により生まれたメモワール、『パリでいっしょに』は、パリの町並みと地元の人々の日常、外国人から見れば滑稽なフランス人の特徴、人々の奇癖、伝説的人物の逸話などで読者を楽しませます。一方、ユベールとエイズとの格闘は、一切描かれていません。
読んでいて思わず声を出して笑ってしまった話はいくつもあるのですが、そのうちのひとつ、浮浪者の話をご紹介します。
シャトレ界隈には、ボル・ド・リ(ご飯茶碗)と呼ばれているホームレスが出没します。彼は相当なファッション・センスを持っていて、コム・デ・ギャルソン のスタイリストがついていると言ってもおかしくないようなコーディネーションで服を着ていることがしばしばあるとの事。着るものは、近所の人々や、サン・ メリ教会の向かいで古着などを売っている人々からもらったものらしい。
近所のフリーマーケットでブランド物を目ざとく発掘し、ただ同然で購入して着こなしている自分の家族を思い出さずにはいられない話です…。
最後のエッセイに添えられたユベールの「デッサン」は、二人の5年間がどのようなものであったか、エドマンドの愛情がどのようなものであったかを想像させます;
背景の描かれていない画面の下のほうに、「強情で意地っ張り」、垂れ耳のバセット・ハウンドが寝そべっています。ユベールが溺愛し た、二人の子供とも言える犬、フレッドです。その頭上には王冠が描かれています。
なぜフレッドに王冠が被されたのか…私はそれを思うと胸が熱くなってしまうのです。
なぜなら、「彼(ユベール)にとってわれわれの愛は、異性のカップルと何ら変わりない、神 々の祝福を受けた愛だった」ことを、エドマンドのその言葉以上に、雄弁に説明しているように思えるからです。
そのような愛で結ばれた二人の子供であるフレッドの絵は、二人の世界を慈悲深く守る王、王冠を被るべき貴い存在の、エンブレムのようにも見えてこないでしょうか。



 『パリでいっしょに』 エドマンド・ホワイト著 中川美和子 訳 白水社

 Our Paris Sketches from Memory by Edmund White and Hubert Sorin

Wednesday, 29 July 2009

『宮廷画家のプリンス』アーサー・シモンズ/A Prince of Court Painters by Arthur Symons


白いシンプルな靴にはやわらかい珊瑚色の大きなリボン、踝のみえる短めのズボンをはき、白くてだぶだぶのシルクの上着を身に着けています。その上着 には、襞のある扇形に広がる特徴のある襟がついています。なにやら丸い帽子をかぶり、脱力した両腕を脇にたらし、穏やかに開いた眉の下にやさしげな目を輝 かせています。
憂いを帯びた微かな微笑がそのピエロの衣装と対照をなし、広いルーブルで数々の絵画に食傷気味になった鑑賞者をさえ、立ち止まらせるのです。
「優雅な宴」(fêtes galantes) で知られる画家アントワーヌ・ヴァトーはいつも病気がちで、その為にあちこちを転々としました。晩年にはよい医者がいるというのでイギリスにまで渡りまし た。それでも、健康になり、たずねて来る友人にも邪魔されず、静かに作品に没頭したいというヴァトーの希望は生涯かなわなかったようです。イギリスから 戻って数ヵ月後に36才の若さで病死しました。
青年のころから、彼は自分自身の 人生の喜びや欲望には興味を失っていました。その代わり、他人の人生を観察することに喜びを見出していました。数々の優美な宴、幸福が閉じ込められている ような庭(T・ゴーティエ)、そこで楽しげに手を取り合う恋人たちーこれらは批判的で憂鬱な傍観者の覚めた筆により描きだされたのでした。
刹那的に生き、夢想に身を委ね、幸福に頬を輝かせている女性たちー彼女たちの姿を素晴らしく魅力的に描き出しつつも、彼はそのような人々と交わり同様に生きたいとは思いませんでした。
ヴァトーは悲しみと羨望を感じながら、情事
(la galanterie)のはかないうわべだけの美しさを観察します。そしてそれらに、敬虔と言ってもいいほどのまじめさを与えました。これこそ、他の軽薄な絵のみを残した画家たちにできなかったことでした。
悲しいお祭り騒ぎーヴァトーの絵画はリュートやクラヴィコードで奏でられる悲しげな音楽なのだ、とアーサー・シモンズは言います。弦は啜り泣きし、クイル(ハープシコードの弦を弾く爪)は空疎な音をたてる。ヴァトーの色彩は、常に色あせたものの色であり、枯れかけたバラの花びらの色なのだ、と…。
ウォルター・ペイターは、ヴァ トーの唯一の弟子であったジャン・パプティスト・ペイターの妹の日記という体裁を取って、ヴァトーの肖像を描きました。アーサー・シモンズはこの想像的肖 像(Imaginary Portrait)に、ヴァトーのすべてが完璧に描き出されていると書いています。
原書 : Colour Studies in Paris by Arthur Symons (1918)


Monday, 5 May 2008

エルンスト・ユンガーの日記/ The Diaries of Ernst Jünger by Nils Fabiansson


Junger’s notes
(c) Nils Fabiansson
2008年2月、モレスキンの手帳愛好家によるブログで(現在はモレスキン社が所有する)、エルンスト・ユンガーの手帳についての記事が投稿されていました。
ここにご紹介したいと思います。(著者の了承を得て全文を訳してみました。)
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2008年2月17日日曜日は、作家であり哲学者であり、また日記作家としても名高いエルンスト・ユンガーが102歳で永眠してから10周年の記念でした。ユンガーは自伝的戦争記、『鋼鉄の嵐の中で - 前線におけるあるドイツ突撃隊員の日記』("In Stahlgewittern"、英訳("The Storm of Steel.  From the Diary of a German Stormtroop Officer on the Western Front")の出版により知られるようになりました。ユンガーは第一次世界大戦(1914-1918)を経験し、ほぼ4年に渡る西部前線の塹壕生活で、 16冊のポケットサイズの日記ノートを埋めました。「一山ほどの」と彼の言うとおり、それは1500ページにもなります。*1
日記のほとんどは、「戦争日記」(Kriegstagebuch)と題されています。 最初の7冊のノートはどれも暗緑色のハードカバーで、残りのものは全て異なる体裁と色です。いつくかは罫線入りですが、白紙や正方形のページのものもあり ます。"Fauna coleopterologica douchyensis"(Douchy昆虫誌)というタイトルが付けられている薄い大きなノートは、塹壕で発見された143の甲虫の記録です。ノートに は、一日何件も書き込みをしている期間があります。ある期間-ほとんどは休暇や休戦中ですが-は、全く記入がありません。当日ではなく数日後に書き込まれ ている期間もあります。ノートは判読しがたい古い筆記体*2の ドイツ語で、灰色もしくは青い鉛筆か、黒や緑、または紫のインクで書かれています。削除されたり、取り消し線を引かれたり、また切り取られた箇所は日記に ほとんどありません。約40余りのスケッチがあり、余白に書き込まれたものから、1ページ全てを使って描かれた絵や地図まであります。また、注釈が後から 書き込まれていたり、メモ、切抜きなどがカバーに挟みこまれていたりします。
エルンスト・ユンガーは出版された本の中で、日記のノートや、それらノートと読書中の本を一緒に入れておいた特殊な地図のケースについて何回か触れています。また、日記をつけていた時間についても書いています。
「長期間、戦争に参加したり珍しい状況にある人には、とぎれとぎれにメモを残すよりも、毎日日記をつけるようにアドバイスしたい。それは後日、書いたときの状況を思い出す記憶の鍵となるだろう。( 略-)これらは書き手に経験の本質を理解することを強要し、そして彼を – 一日数分間時間を割くだけで -
見慣れた環境より高いところへ押し上げ、傍観者の位置につかせる。日常の経験が新しい姿で現れるだろう。丁度見慣れた風景が、スケッチしようとした途端に全く違って見えてくるように。
(-略-)生死にかかわる事でない場合、新しい事実を日々まとめる事は考えるよりも労力を必要とするものだ。(-略-)いずれにせよ、観察する努力はノートをとる習慣と調和する。また、人が数年しか経験できず2度と同じような状況が発生しないような特定の状況にいるならば、それらの比類の無い特徴を理解すべく、注意深くならざるを得ないだろう。」
また、戦争中の日記ノートそのものについても、詳細に記しています。
「しばしば書き込みは注意深くインクで書かれている。;そして私はそこから直ちに、私が南フランスやフランダースの小さなコテージでゆったりと座っていたことを、あるいは私の塹壕の前の静かな場所でパイプをくゆらし、最悪でも遠くで鳴っている、夕方最後の偵察をしている偵察機の飛行音にしか邪魔されなかったことを思い出す。
そしてその後には、支離滅裂で歪んだ鉛筆書きの数行がある。それらは攻撃前の、込み合った地獄のような塹壕の蝋燭のかすかな明かりで、あるいは果てしなく何時間も続く大量爆撃の中、走り書きしたものなのだ。
しまいには、動揺した言葉遣いや、判別ができない文字がある。
それらは地震を記録している地震計の波線に似ていて、文字の語尾が急速な書き込みのせいで空中に消えたりしている。-おそらく攻撃のあと、破片が紙の上に 落ちてきたに違いない。殺人蜂の大群のようなマシンガンの弾に襲われたあとの、爆撃でできた穴やところどころ寸断されている塹壕のなかで。」
ユンガーは晩年まで日記を書き続けました。最後に出版された日記は、1997年出版の"Siebzig verweht V"です。ユンガーのノートは、ドイツ公文書館に保存されています。
*1 出版された"In Stahlgewittern" (邦訳:『鋼鉄のあらし』佐藤 雅雄訳 /先進社/1930年)はこれらのノートに基づいている。
*2 現在では使用されていない筆記体で、読める人も少なくなっている。
Sütterlinschrift (Sütterlin script), もしくは Sütterlin(ウィキペディア 英語の説明)

『鋼鉄の嵐の中で』の詳しい情報については、下記ブログで公開されています。
"Das Begleitbuch zu Ernst Jünger ‘In Stahlgewittern’"
[http://stahlgewittern.blogspot­.com/]

著者について:
ニルス・ファービアンソン(Nils Fabiansson)
スウェーデン人の歴史家・考古学者、ストックホルム在住。『鋼鉄の嵐のなかで』の案内書(Begleitbuch zu Ernst Jünger ‘In Stahlgewittern’)を執筆。この案内書は2007年12月にドイツで出版されました。内容はドイツ語で、フルカラーのイラストや写真が掲載されています。
また、これまで未出版だったユンガー直筆の図面も数枚掲載されています。

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原文:
The Diaries of Ernst Jünger
[http://www.moleskinerie.com/2008/02/the-diaries-of.html]

『鋼鉄の嵐の中で』の案内書(ドイツ語):
Begleitbuch zu Ernst Jünger ‘In Stahlgewittern’ [Illustriert] (Broschiert)
von Nils Fabiansson (Autor)

Sunday, 28 October 2007

『哲学的書簡集』サン・マルタン/Correspondance de Saint-Martin avec Kirchberger, baron de Liebistorf (1792-1797)

「ムッシュー、どうか見知らぬ人からの、このような手紙に驚かないでいただきたい。あなたの文章と人柄の素晴らしさが、私にペンを取らせたのです。」
1792年、スイスのある男爵は「知られざる哲学者」という筆名で『誤謬と真実』を出版した人物に、こう手紙を出しました。
男爵は「知られざる哲学者」が著作で使った用語、「能動的・理知的原因(La cause active et intelligente)」や「徳(Les vertus)」について説明を請います。熱心な質問には、フランスからすぐに丁寧な返事が届きました。
ここから、二人の文通は始まります。
男爵は自分の知的興味の赴くまま、文通相手に意見や助言を求めました。ことにオカルティズムの実験と研究については、なんども意見を求めました。そして、温和で忍耐強く優しい哲学者から、ついにはいらだったような返事を受け取ります。
「なんという富をあなたはその手にもっていることでしょう!その富の宝庫を目の前にして、あなたがまだそのような下位の法則の研究に時間を無駄にしているとしたら、私は非常に残念なことと思います。」
ここでこのフランス人哲学者が指している富とは、二人が話題にした神秘家たちのなかでも、とりわけヤコブ・ベーメの著書でした。男爵はドイツ語が母語だっ たため彼の著作を自由に読めましたが、文通相手はヤコブ・ベーメの著作を読むために、50歳近くにしてドイツ語の勉強を始めなくてはならなかったのです。

知られざる哲学者(Le Philosophe unconnu)という名で著書を出版した神秘思想家、ルイ・クロード・ド・サン・マルタン(Louis-Claude de Saint-Martin)は、1743年にフランス・ロワール河流域のアンボワーズに生まれました。3歳の時に母親と死別し、以後義理の母親に育てられ ます。「わたしの幸福は、すべて(義理の)母のおかげなのです。」とサン・マルタンは回想します。彼女のやさしい気遣い、愛情、敬虔さ、そしてその教育 が、彼を神のみならず人への愛情に導いたと言います。コレージュを出た後、パリで法学を学びましたが司法官職には向かず、平時にはより自由な時間が持てた 軍隊に入ります。25歳のとき、秘教団体の創立者として知られる謎めいたスペイン人、マルチネス・ド・パスカリに出会いました。そして結局は軍人としての 職も放棄し、パスカリの個人秘書となります。ただ、サン・マルタンはパスカリについて多くを語りません。パスカリの創立した秘教団体では、あらゆる秘術・ 実験に参加しましたが、それには常に懐疑的でした。「このような外面的な方法は、私を引きつけませんでした。-(中略)-私は一度ならず師に向かって叫びました。『このようなものすべては、神を見出すのに必要なのでしょうか?』」パスカリの死後、サン・マルタンはこのような結社から離れました。
「私 の現世における仕事は、人々の精神を、自然な道筋に よって神秘的な事柄へ導くことです。人は自分に相応しいその観念を、一方では堕落によって、また一方では教師らのしばしば誤った知識により、失っていま す。」自分の人生を支配した情熱、その目的を、サン・マルタンはこのように表現しました。
サン・マルタンは壮年時この使命を、著作によってだけでなく、パリ上流社会で影響力を持つことによって達成しようとしました。当時エリゼ宮を所有していた ブルボン公爵夫人を友人とし、神秘家・哲学者としては社会的成功を収めたと言えます。物腰は優美で人懐こく、また謙虚でもあり、魅力的な容貌であった彼は どこでも歓迎される思想家でした。(やがてこの方法に限界を感じてからは、執筆活動により時間を割くようになります。)
サン・マルタンはジョゼフ・ド・メーストルの先駆者と言われることもあります。ドイツには「非道な教義(doctrines infernales)」である啓蒙思想が蔓延し、フランスでは自然崇拝や物質主義が氾濫していたなか、サン・マルタンは神聖の崇拝者であり神意(La
Providence)の擁護者でした。しかし彼にはメーストルのように必殺の寸鉄句を持って論争相手を打ち砕くことへの嗜好はありません。穏便な説得と勧告によって、まだ硬直していない精神を持つ知的な人々へと働きかけようとしました。
「十全なる真理に論理的思考だけで到達できるかのように振舞うことは、虚しいことである。このような方法では、我々はただ合理的な真理へしかたどり着けな い。しかしそうはあっても、(論理的思考には)際限なく価値があり、誤った哲学からの攻撃に対抗する為の手段に富んでいる」
サン・マルタンにとって、人は異国に植えられた植物に似たものでした。彼の本質は異国(地上)には属してはいず、たとえ異国の養分を吸収し堕落してその世界に同化はしても、異国は滞在地であり、故郷ではないことに変わりはないのです。
原書:Correspondance de Saint-Martin avec Kirchberger, baron de Liebistorf (1792-1797)

Saturday, 21 July 2007

M・アシン・パラシオス『イスラムと《神曲》』/Islam and the Divine Comedy by Miguel Palacios

スペインのアラブ学者M・アシン・パラシオスは、おそらく20世 紀に書かれたダンテ研究のなかで、最も物議をかもした論文を残しました。ローマ・カトリック神父であり、またマドリード大学教授でもあったアシン・パラシ オスの主張は、ダンテの『神曲』はこの詩人の才能によって無から生み出されたのではなく、イスラームの神学的文献からインスピレーションを得、そこから多 くの形式と内容を借りて書かれたものである、というものでした。1919年『神曲におけるイスラム終末論』が出版されるや、賛否両論の嵐がヨーロッパ中に起こります。
アシン・パラシオスは、なかでもDoctor
maximus
(最大の師)と呼ばれる偉大なイスラムの思想家、イブン・アラビーの『夜の旅の書』、The Book of the Nocturnal Journeyと、『神曲』の間に多くの関連を見出します。
精 神の目的は、実在の本質である神についての認識を獲得することである。この目的に向かう道を探すうちに彼らは、創造者の知識に彼らを導く使徒と出会う。あ る人々は感謝のうちに使徒の導きを受け入れ、またある人々は、自分たちの認識の能力がまったく劣るものではないというのを理由に、その導きを見下して受け 入れない。前者が、啓示された教義の導く方向へと従い進む一方、後者はただ自身の理性の光にのみ導かれて進む。
ここに神秘的寓意物語が始まる。物語の主人公は二人の旅人で、それぞれ上記二種類の人々に分類される神学者と合理主義的哲学者である。彼らは同時に、神へと向かう旅路へ出発する。・・・・・・
『夜の旅の書』はこのようにして始まります。
アシン・パラシオスは『神曲』の主人公と、『夜の旅の書』の主人公たちの類似を指摘します。ダンテは最初ウェルギリウスに導かれる哲学者として出発し、その後ベアトリスの教えを受けて神学者として天上へと導かれるのです。
ダンテとイブン・アラビーは、これらの旅を象徴として用いました。象徴されているのは、最終的な目標に達するための準備として神より託されたような、この世における精神的生です・・・。
ところでルネ・ゲノンは、『ダンテのエゾテリスム』で、ダンテとイブン・アラビーの精神がどこで出会ったかを暗示しています。ダンテは、アヴェロエ スやアヴィセンナの名前は書き残しましたが、イブン・アラビーについてはそうではありませんでした。なぜなら(ゲノンによれば)、当時イブン・アラビーの 形而上学は“俗な“経路によってもたらされたのではなく、秘教的な教えとして一般には隠された経路で伝えられたものだったからなのです。
Islam and the Divine Comedy  by Miguel Palacios

Thursday, 19 July 2007

『鋼鉄の嵐の中で』エルンスト・ユンガー/In Stahlgewittern von Ernst Jünger



エルンスト・ユンガーは、トーマス・マンの死後、現代ドイツ文学で最も優れた作家とも言われています。第一次世界大戦を勇戦し、ドイツ軍人として最高の勲章 を受けました。第二次世界大戦中はパリのドイツ軍司令部に勤務しましたが、ヒトラー暗殺計画に関わったためにドイツ軍から追放されました。パリ滞在中の日 記には、ジャン・コクトー、ガストン・ガリマール、ジョルジュ・ブラック、ピカソ、ドリュ・ラ・ロシェルなど、当時パリにいた著名人が次々と登場します。 この日記の仏訳(Jardins et Routes)の出版により、ユンガーはフランスに多くの愛読者を持つことになりました。ミッテランもその一人です。終戦後は、ライプツィヒとナポリの大 学で動物学と哲学を修め、その後作家として執筆を続けました。その名の示すとおり – Junger – younger -、102歳まで生きた長命の作家でもあります。
ユンガーは第一次世界大戦の戦場での出来事を、ひとつひとつ冷静に日記に書きとめました。
ジャンヌ・ダルクとあだ名した勝ち気なフランス人少女との夕食、屠殺場と化す凄惨な戦場、放置されたまま腐敗する死体のなかの行進、日なたのなかで背伸び する猫のように体を伸ばし、まだ幼い顔に微笑みを浮かべて死んでゆく兵士、限界まで神経が張りつめられる夜間の作戦、草上でアリオストを読みながらの休 息、戦場で負傷した弟との再会とその救出、勇敢な戦友たちの死と自らの負傷の数々・・・。 アンドレ・ジッドはこの『鋼鉄の嵐の中で』を、「戦争について書かれた本のなかで、疑いなく最も美しい(incontestablement le plus beau livre de guerre que j’aie lu)」と書いています。
あるときユンガーは、ポケットから家族の写真を出して見せ、命乞いをするイギリス兵を見逃して助けました。致命傷を負って倒れ、自分の足にすがってきた兵 士の背をやさしくたたき、指揮する為にその場を離れました。またあるときには、塹壕戦で倒した敵の顔を、まじかに覗き込みました。倒れているのが、自分で はない理由があったでしょうか?兵士は運命論者にならざるを得ません。鋼鉄の嵐、戦場のなかでは、生死を分ける行動を選択する余地など、ないのです。

『鋼鉄の嵐の中で』には、ヘミングウェイにみられるような臆病さの気配も、 T.E.ローレンスのマゾヒズムも、『西部戦線異常なし』のレマルクの憐憫の情も見られない、とブルース・チャトウィンは書いています。「そのかわりに、 ユンガーは、人間の“基本的な”他人を殺す本能についての信念を提示する。-(戦争は)ひとつのゲームであり、もし正しくなされたなら、騎士道的な規範に 従うものなのだ」
ユンガーは、1918年カンブレー付近の絶望的な戦いで銃弾を浴びて倒れたときを、人生で本当に幸福だった数少ない瞬間でもあった、と回想します。 「その瞬間わたしは理解した、閃光のように、わたしの人生を、その構造の最も奥深く隠されたところで。」"真理の光は陽の光に似て、好ましい場所に刺すと は限らない"ー日記の迷宮のなかで、ユンガーは静かに語りかけてくるのです。



原書  In Stahlgewittern von Ernst Jünger
Das Begleitbuch zu Ernst Jünger ‘In Stahlgewittern’:
Footnotes to The Reader’s Companion to Ernst Jünger’s "In Storm of Steel" by Nils Fabiansson
ユンガーの『鋼鉄の嵐の中で』の脚注。(ドイツ語および英語)

Saturday, 7 July 2007

ゲルショム・ショーレム 『ベルリンからエルサレムへ』/Von Berlin nach Jerusalem. Jugenderinnerungen von Gershom Scholem

ゾーハルやカバラ、ユダヤ神秘主義の分 野において著名なショーレムは、ヴァルター・ベンヤミンの親友でもありました。この自伝では多くのページがベンヤミンの思い出に費やされています。大学に 失望してふたりで架空の大学を設立し、その運営上の問題について意見を交換したこと、ベンヤミンの不幸な結婚生活を目撃して辛い思いをしたこと・・・。
ショーレムが同時代に会ったその他の知識人には、ブロッホ、アドルノ、ホルクハイマー、ハンナ・アーレントなどがいます。アドルノとアーレント(彼らはた がいに嫌いあっていたのですが)ともうまくつきあうことができました。これは友人としてはひどくつきあいにくいベンヤミンとの、長年の交流から獲得された 性質による、とショーレムは回想します。
ショーレムの会った人々のなかでも、特異な人物がこの自伝に現れます。
「反ブルジュア的な風刺の水際立った才能を、神秘主義の誇大宣伝のしたたかな才能と結合させた有名な作家」、グスタフ・マイリンクです。ショーレムによれば、当時マイリンクの文学的な質を陵駕するのはホルへ・ルイス・ボルヘスだけでした。
ショーレムはあるとき知人から、マイリンクが自分自身の著作の数箇所を説明してもらいたがっていると聞きました。そして1921年 「ある程度好奇心にかられて」、彼に会いに行きます。「作家というものがいかに偽の神秘的印象をちょろまかすことができるか」、、、ショーレムはマイリン クの印象を、「さながら究極の小ブルジュアといった風貌で、そのぱっとしない外観は彼の書く幻想的な物語とは裏腹であった」と書いています。
マイリンクは突然問いかけます、「神がどこに住まわれているか、ご存知ですか」。その時「人が神を入らせるところ」という有名なラビの言葉で、ショーレムが答えたかは分かりません。
マイリンクはショーレムを穴のあくほど見つめて言いました。「脊髄にです!」。

 グスタフ・マイリンク
原書 Von Berlin nach Jerusalem. Jugenderinnerungen von Gershom Scholem